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【大学野球】早大・小宮山悟監督が元早大監督・野村徹さんを「父親」と慕った理由

 

最後まで野球談議


小宮山監督[右]は就任した2019年1月の稲門倶楽部の選手激励会で、野村さん[左]から激励を受けた[写真=BBM]


 1999年から2004年まで母校・早大を監督として率いた野村徹さんが4月8日、死去した。89歳だった。2019年1月1日から母校を指揮する小宮山悟監督は一夜が明けた9日、安部球場で取材に応じ、哀悼の意を表した。

「ご家族の話ですと、もうある程度、覚悟を決めるように言われていたようで……。医者からは『息をしているのは奇跡です』ぐらいのことを言われたそうです。教え子が入れ代わり立ち代わり励ましに行ったり。(1960年秋の)早慶6連戦を戦ったご存命の方が声をかけたり。娘さんが『お父さんしっかりして、試合始まるよ』ぐらいのことを言うと、シャキッとするみたいなことをおっしゃられていました。我々にも『覚悟をしておいてください』という話もありましたので『お疲れ様でした』という言葉しかないですね」

 3月20日過ぎに一時退院し、大阪市内の自宅へ帰宅したという。

「(病院からは)『最後になります』ということだったらしいんです。それを受けて、東京からも何人も関係者が駆けつけて、最後の団らんをみたいな形で、そんな時でも、野球の話が尽きなかったと聞きました。卒業生から動画が送られてきましたが、もう1回、奇跡が起きないかなと願っていたんですけど、本当に残念です」

 最後に顔を合わせたのは、昨春の早慶戦(5月31日)だった。2002年の春秋連覇の原動力となった和田毅(元ソフトバンクほか)が、東京六大学野球連盟結成100周年の記念行事であるレジェンド始球式に登板。野村さんは一塁スタンドから、その雄姿を見届けた。試合開始前には、一塁ベンチ前に控える小宮山監督が、シートに腰かける野村さんに手を振り、笑顔で応えていた表情が忘れられない。最後に話したのは、一時退院した3月23日だった。

「同志社大学との定期戦で、東京で懇親会を開催している時に、大阪から電話連絡がありました。『春、頑張ります。(昨秋は)野村さんの4連覇に届きませんでした。あらためて野村徹のすごさを肌で感じました。一からやり直します』という話をしました。私の言っていることは理解できていたと思いますが、返す言葉が、思うようにろれつが回らなくて……。『頑張れ』というようなニュアンスのお話をしてくれたのが最後になりました」

心の拠りどころ


野村さんが死去した翌日の4月9日、安部球場ネット裏のポールは半旗が掲げられた[写真=BBM]


 小宮山監督にとって、野村さんとは「恩師」であり「親父」のような存在だ。義父である黒須睦男(浦和高)さんが野村さんと早稲田大学野球部の同級生で、マネジャーを担っていた。不動の正捕手と、部の運営を一手に動かす敏腕主務。当時、早稲田を率いていた石井連藏監督の下、主将・徳武定祐(早実)とともに、チームを支えるという共通点から2人は親しい間柄だったという。黒須さんが先立った後、野村さんは小宮山監督のことを「息子」のように接していた。監督就任後も、その関係性は変わらなかった。

 小宮山悟監督にはもう一人、大切な「恩師」がいる。早大3年時から2年間、指導を受けた石井連藏さん。石井さんは「学生野球の父」と言われ、早大初代監督・飛田穂洲氏と同じ水戸一高出身で、同氏の申し子として薫陶を受けてきた。石井さんが早大を指揮した第1期(1958〜63年)の教え子が野村さんで、第2期(88〜94年)が小宮山監督という関係だ。

 石井さんは2015年9月に他界。小宮山監督は就任当時から「石井さんの亡きいま、私の拠りどころは野村さん」と語っていた。19年1月12日、稲門倶楽部(野球部OB会)の総会、選手激励会が東京都内のホテルで開かれた。野村さんは大阪から上京し、「息子」である小宮山監督の就任にあたって、こう話していた。

「黒須が早逝したものですから、その親代わりといったところが、我々の世代にはある。応援していくべきだな、と。我が子のように心配です。(当時1月で)82歳になりましたが、少し免疫が出たかもしれない。生きる活力を与えてくれましたよ(笑)」

息子としての恩返し


野村さんが死去した翌日の4月9日、安部球場センターポールは半旗が掲げられた[写真=BBM]


 小宮山監督にとっても、野村さんは実の父親のような存在だった。

「監督になって、いろいろと迷惑をかけることも多々ありましたんでね。出来の悪い息子なので……。親孝行する前に親が亡くなってしまったという、そんな気はします。4連覇して笑って握手したかったですね。『追いつきましたよ』ぐらいの感じで。ところがやっぱりそんな甘いもんじゃないっていうのが、身に染みて分かりました。改めて、あの時の4連覇はすげえな、と」

 野村さんは、何よりも日々の練習に重きを置いていた。基礎基本の反復で、モットーは「東伏見=神宮」。つまり、本気で練習に取り組まなければ、リーグ戦で勝負することはできない。東伏見グラウンド(現・安部球場)はピリッとしたムードが充満していた。小宮山監督は現役時代、2002年にメッツで1年プレーした後、04年にロッテに復帰するまで、03年は無所属。東伏見グラウンドで汗を流し、野村さんが指揮する早大史上初の4連覇(2002年春〜03年秋)を、間近で見てきたのだ。

「もう、あれ以上のものはないと思います。本当に張り詰めた空気っていうのかな。今の時代にそれがいいのかっていうと、なかなか難しいと思いますよ。学生を指導するに当たり、きつく叱りつけなければいけないことが多々あるんです。リーグ戦直前、ベンチ入りメンバーに入れない部員が、ベンチの外で大爆笑しているようなチームが勝てるわけがない。そういう学生を相手にしてはいけない、と自分に言い聞かせて……。勝てる集団にしないといけないと考えたら、その厳しさを、教えなければいけない部員にだけ教える。到底、理解できないような、もう緊張感のない爆笑しているような部員は一生、早稲田のユニフォームは着られない。改めて当時の野村さんの厳しさみたいなものを、思い返しているところです」

安部球場は半旗


早大・小宮山監督は4月9日、東京六大学野球連盟の懇親会に出席し、報道陣に対応。野村さんの訃報に涙を流し、時折言葉を詰まらせた[写真=BBM]


 死去翌日(4月9日)、安部球場のセンターポール、ネット裏のポールは半旗だった。この春のリーグ戦の開幕カード(対東大1回戦)では、喪章をつけて臨むという。

「ご家族の方にお知らせすると、娘さんには、感謝されましたけど……。早稲田として大事な人が亡くなったわけですから、弔意を示す必要があるという、そういう判断です。それぐらい早稲田大学野球部の歴史の中で、重要な人物なわけですから。選手時代に(1960年秋の)早慶6連戦で勝ち、監督としても実績を残したレジェンドなわけですから。さらに言えば、(近大付高で)高校野球で甲子園に出場した監督、(大阪大の特別コーチ、早大監督として)大学選手権出場へと導き、(大昭和製紙で)都市対抗野球で優勝した監督と考えたら、野球殿堂に入ってもおかしくないだろうという、野球界に貢献された人物なわけです」

 東京六大学リーグ戦開幕2日前の9日夕方、東京都内で懇親会が開かれた。報道陣に囲まれると、野村さんの訃報に涙を流し、時折言葉を詰まらせた。「何が何でも勝たないといけない理由ができた」。昨秋は早大史上2度目となる4連覇を逃し、今年は野球部創部125周年の節目である。小宮山監督は今春、2季ぶりの弔い優勝を固く誓った。

「実は監督室に野村さんが愛用していた灰皿があるんです。退任後も安部寮にそのままあり、後任監督が使ったらしいです。今も監督室にしまってあります。形見みたいなものですね」

 いつも、小宮山監督のそばには「親父」がいる。愛する母校のため、そして学生のため、就任8年目のシーズン、神宮で指揮を執る。

取材・文=岡本朋祐
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