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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/清原和博】「試合中の応援までがやんだ」孤独な背番号5…32本塁打も戦犯扱い

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

思い出した少年時代の夢


FA移籍で1997年から巨人の一員となった清原


「人生の分かれ目というかね。このまま西武に残って野球をやるか、僕も男やし、一度出て勝負をかけてやろうかと……。(中略)まあ、昨年はああいう形で東尾さんが監督になられて、僕も右肩のケガをしましたからね。FAの資格を持っていましたけど、移ることはまったく考えませんでした」(週刊ベースボール1996年9月9日号)

 1996年夏、西武の清原和博は、掛布雅之との対談で自身のFA権について、そう語った。前年に怪我をした右肩の関節亜脱臼の回復具合については、「ファーストなら何とかできますが、これがサードとかショートだったら、今でもちょっと難しい」と明かしている。

 同時期に、西武の堤義明オーナーは本拠地・西武球場のドーム化計画について記者会見に応じ、新人時代から寵愛する背番号3の去就について、「清原を西武から出せないというより、西武は清原を中心に作ってきたチームだから」と異例のコメントを残した。ドーム化計画も清原の引き止め策の一環と見られていたのだ。この年から、清原はナイキと年間推定で1億円の専属個人契約を結んでおり、西武球場では8月27日から9月1日まで、29歳の誕生日を記念して、「ナイキ清原デー」を開催。西武グループにとって、背番号3はそれほど特別な存在だったのだ。

 だが、現場の首脳陣からは違う捉え方をされていた。当時の西武は、9シーズンで8度のリーグ優勝という圧倒的な強さを誇った森祇晶監督が退任して、秋山幸二石毛宏典工藤公康辻発彦ら黄金時代を支えたメンバーも続々とチームを去っていた。すでに1995年から指揮を執る東尾修監督のもと、急激な世代交代の真っ只中にあった。実績のない若手にとってオーナーの寵愛を受ける背番号3は雲の上の存在で、一塁を守る清原の顔色を窺い、捕りやすい送球を意識するあまり、イップスになってしまった若手内野手もいたほどだ。

 もちろん清原本人も、自分が若いチームから浮いていることは自覚していた。プロ11年目の1996年シーズンは自身8年ぶりの全試合出場を果たし、31本塁打を放つも、悲願の本塁打王のタイトルはトップのトロイ・ニール(オリックス)にわずか1本差で涙をのんだ。気がつけば、甲子園の怪物スラッガーも、来年は30歳になる。残された野球人生を考えたときに、清原は胸の奥底にしまっていた、少年時代の夢を思い出した。

「西武での10年が過ぎてFA権を得たとき、まず心に浮かんだのはジャイアンツで野球をやりたいという、蓋をしたはずの昔の夢だった。もちろんジャイアンツが僕を必要としてくれたらの話だけれど、憧れの球団で野球をやれるかもしれないという希望がむくむくと心の中で頭をもたげたのだ」(男道/清原和博/幻冬舎)

FA宣言時にひとつの懸念材料


 そして、日本シリーズ終了後の1996年10月27日、清原はFA申請書を提出。10月31日、西武と交渉を行い、他球団移籍の決断を伝える。「外で勝負したい。ドラフトのクジで人生を決められ、自分なりに精いっぱいやってきた。今度は自分が決めた道で勝負したい」という清原に対して、東尾監督も「入団の経緯や日本シリーズで巨人を倒して泣いたことなど、初恋に似た気持ちがあるのだろう」と理解を示した。

 日本テレビの氏家齊一郎社長は、「本人の気持ちを無視するのは、親の都合で結婚を認めないのと一緒です」と語り、読売サイドもミスターライオンズ獲得に支障がないように思われた。だが、ひとつだけ懸念材料があった。巨人の「四番・一塁」には、清原が新人時代から打撃の師と慕う落合博満がいたのだ。つまり、清原のFA移籍は、同時にポジションの被る落合がレギュラーを失うことを意味していた。1996年の落合は打率.301、21本塁打、86打点と一時は打点王争いのトップに立つ活躍も、8月末に死球を受けて左手小指を骨折。長嶋巨人は逆転のリーグ優勝を飾るが、日本シリーズでイチロー擁するオリックスに完敗したことから、チーム再編が確実視されていた。42歳の落合から、29歳の清原への主砲若返りもその一環である。ただ、落合自身は一貫して清原の巨人加入をあと押ししていた。

「残念なことに、清原には個人の勝利(打撃タイトル)が一つもない。私は顔を合わせるたびに『やればできるのに、なぜやらないんだ』と発破をかけ続けた。しかし、清原は変わらなかった。そこで私は、清原にフリー・エージェント宣言を勧めた。同時に、長嶋茂雄監督に清原獲得を進言した。清原には、大舞台に強いという才能がある。全試合超満員の観客と全国中継という環境になれば、その才能がフルシーズン発揮できるのではないかと考えたわけだ」(プレジデント2000年10月16日号)

一時は阪神に気持ちが傾くも巨人へ


阪神からも熱いラブコールを受けた清原


 FA宣言時から、確実視されていた清原の巨人入りだったが、11月13日の清原と巨人の第一回交渉の席で、風向きが変わる。約束の時間に遅刻してきた巨人の深谷尚徳球団代表、鯉渕昇同代表補佐が「落合選手ではなく、清原君をメーンに考え、一塁を空けて待っています」と発言したことから、翌14日のスポーツ紙1面には「落合解雇」の見出しが踊ったのだ。これには落合も怒りを露わにし、マスコミを通して巨人フロントとオレ流の泥試合が展開されることになる。清原はドラフト指名回避の謝罪もなかった巨人サイドに不信感を抱き、一時は「タテジマのユニフォームをヨコジマに変えるくらいの気持ちで」という熱意でオファーしてきた阪神入りに気持ちが傾く。阪神サイドからは総額30億円超えの破格の複数年契約と、引退後の監督就任含む終身雇用を提示されたという。

 しかし、母親はそんな息子の気持ちを見透かしたように、「あんたの元々の夢は何なの。昔から巨人に行きたかったんやないの」と発破をかける。12年前のドラフトで憧れの巨人から指名されず、悔し涙を流した息子の姿を母は忘れていなかったのだ。巨人との二度目の交渉で、長嶋監督から「思い切って僕の胸に飛び込んできてほしい」と口説かれ、渡邉恒雄オーナーが清原の両親に面会を求め、ドラフトの件で頭を下げた。そして、巨人軍の清原和博が誕生するのだ。1996年11月24日、巨人入団会見の席上で長嶋監督と並び、「命懸けでやります」と決意表明した清原の新背番号は「5」に決まった。

最終的には巨人入りを決めた清原。しかし茨の道が待っていた


 しかし、一時は打撃コーチ兼任での逆転残留が濃厚と見られていた落合は退団して、日本ハムへ移籍。この時、清原が「オレはアイツにすべてを教えるよ」と公言し続けた師匠の落合と巨人1年目を共闘できていたら、その後の運命も変わっていただろう。著名人や野球ファンの多くは、「西武残留、移籍するならせめて阪神」という意見が多数を占め、熱烈な西武ファンで知られるある国民的女優は、「もし、ジャイアンツに行くのなら、あの時のくやし涙は何だったのかと思います。もし、男としてもう一度勝負をしたいと云うのなら、阪神に入って、ジャイアンツに立ち向かってほしいです」(サンデー毎日1996年12月8日号)と異例の直筆メッセージを週刊誌に寄せた。

執拗な内角攻めで崩した打撃


4月6日のヤクルト戦で桑田[左]とともにお立ち台に上がった


 1997年の巨人春季キャンプが始まると、周囲の厳しい目に加え、球界最高給の推定年俸3億6000万円、西武時代とは桁が違うマスコミの数と清原を凄まじい重圧が襲う。3月中旬、オープン戦を3試合欠場して、ジャイアンツ球場で特打ち中心の個人調整を行うも、開幕目前に右外腹斜筋痛でリタイアしてしまう。それでも、開幕のヤクルト戦には「四番・一塁」の巨人第64代四番打者として出場すると、最終打席で移籍後初安打。第2戦では中前タイムリーで移籍後初打点を記録すると、盟友の桑田真澄が右ヒジ手術から661日ぶりの復帰登板に臨んだ第3戦、清原はヤクルトの増田政行が投じた内角速球を叩き、通算330号となる巨人初アーチを東京ドームの左中間スタンドにライナーで突き刺した。試合後には東京ドームのお立ち台で、PL学園のKKコンビが共演。二人の仲を引き裂いた、あの運命のドラフトから12年後の劇的な“復縁”だった。

 だが、その後は各球団の執拗な内角攻めでバッティングを崩す。4月23日の松井秀喜との初のアベック砲となる第2号アーチが13試合、56打席ぶりの一発だった。週刊ベースボール1997年5月12日号では「清原和博(巨人)の“内角病”カルテ」という特集が組まれ、川上哲治張本勲といった球界の重鎮がその打撃についてそれぞれ課題を指摘する。西武ではよくあるちょっとした不振が、巨人に来た途端に大スランプと騒がれてしまう。4月27日の広島戦、目の前で松井が敬遠される屈辱も、移籍後初のサヨナラ安打を放つなど印象的な活躍もあったが、長嶋巨人は清原やエリック・ヒルマンら33億円の大型補強がまったく機能せず、5月には最下位に転落。5月21日、打率.222の背番号5は開幕から36試合目の横浜戦で、ついに四番から五番へ降格を命じられる。50試合消化時で勝率3割台は球団初の屈辱、首位ヤクルトとは12ゲーム差をつけられた。こうなると、ファンの怒りの矛先は、球界最高年俸選手としてFA移籍してきた清原に向かう。六番に降格した6月6日の中日戦では、打席に入ると応援ボイコットを受けた。

「最後には、試合中の応援までがやんだ。前の打席の松井秀喜まで、応援団は盛大に応援をしていた。僕がバッターボックスに入ると、声援がピタリと止まった。笛も太鼓も静まりかえった。清原は応援しない。ジャイアンツの応援団がそう決めたのだ。足がすくんだ。腹の底から、冷たいものが湧いてくる。目の前が真っ暗になりそうで、頭を振った」(男道/清原和博/幻冬舎)

秋季キャンプの参加を直訴


オールスター第2戦ではMVPに輝いたが……


 孤独な背番号5は、ファン投票で選出されたオールスター第2戦で2本塁打を放ち、MVPに輝くが、前半戦終了時の成績は打率.218、15本塁打、47打点でチームは最下位と不本意なものだった。8月10日の中日戦で12年連続20号に到達。その夏、東京ドームの外野スタンドには、巨人ファンによる「最下位でも全力プレーを」「球団よ問題意識を持て」といった横断幕が広げられた。清原は得意の夏場になるとやや復調し、8月21日の阪神戦で通算350号を放ったが、30歳0カ月での達成は、王貞治の28歳4カ月に次ぐ史上2番目の若さだった。しかし、9月14日のヤクルト戦でトマソンの球団最多三振記録132を抜くと、最終的にリーグ新記録となる年間152三振を喫した。長嶋巨人は9月の6連勝でなんとか最下位を脱出して、4位になるのがやっとである。

 危機感を募らせた清原は、シーズン最後の遠征となった名古屋の宿舎で、長嶋監督の部屋を訪ね、「迷惑になるかもしれませんが、自分を宮崎に連れて行ってください」と秋季キャンプの参加を直訴した。30歳のチーム最高給選手が、オフのテレビ出演やイベント参加も自粛して、若い選手に混じり宮崎で泥と汗にまみれたのだ。

 巨人1年目の清原の最終成績は自己ワーストの打率.249ながらも、終盤に意地を見せ、32本塁打、95打点と本塁打(30)と打点(80)のインセンティブ契約をクリアしてみせた。なお、巨人には通算9シーズン在籍したが、度重なる故障にも悩まされ、30本塁打到達はこの年が最初にして最後である。西武時代は本塁打を打てば無条件で称賛されたが、全打席が全国中継される巨人では、凡打の内容の方をスポーツ新聞の一面で執拗に責められる。24時間、常に人の目に晒されるストレスは想像を絶するものがあった。

「僕は高校でも、西武でも、なるべく自分の思うように自然に振る舞ってきたんですが、巨人に行ってからはなぜか、これまでの自分ではいけないような、変わらなきゃいけないような気持ちになりました。マスコミから悪意や敵意を感じることもありました。チームメートやスタッフまで『清原がきたぞ。どれくらいやるんだろう』という目で僕を見ているような気がして、どう振る舞っていいのかわからなくなりました」(告白/清原和博/文藝春秋)

 やがて、自由奔放だった“キヨマー”は、強面の“番長”と呼ばれるようになる。巨人1年目の清原は、相手チームの内角攻め以前に、長嶋巨人のプレッシャーと戦っていたとも言えるだろう。勝てば国民的ヒーローと称えられるが、30本塁打を打とうが優勝を逃せば戦犯のように激しいバッシングに晒される。日本中から注目される長嶋巨人の絶大なブランド力は魅力でもあり、同時に怖さでもあった。

文=中溝康隆 写真=BBM
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