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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/岸川勝也】松井秀喜の代わりに三番も “10.8決戦”にたどり着かせた救世主

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

“ミスター・ダイエー”を託されて


巨人時代の岸川


「最初は信じられなかったですね。でも、今年、東京遠征に行くたびに周囲から、そのような話が少しずつ入ってくるようになって……。本当にそうなっちゃったのか、という気持ちも少しはありました。寂しかった? そりゃあ、やっぱりプロに入ってずっとホークスに居たわけですから、お世話になった人たちと離れるのは寂しいですよ」(週刊ベースボール1994年8月15日号)

 1994年6月16日、トレード期限間近の駆け込みで、巨人への移籍が決まった岸川勝也は、地元球団でもあるダイエーホークスへの愛着を隠そうとしなかった。佐賀出身の岸川は中学時代、佐賀球場で中学生としては初の場外ホームランを放ち、規格外のパワーが注目を集めた。佐賀北高から、1983年のドラフト会議で南海ホークスから3位指名を受けると、頭抜けた長打力を目の当たりにした首脳陣から“ポスト門田博光”を期待される。当時の穴吹義雄監督も、その素質に惚れ込み、1985年8月17日のロッテ戦で「四番・指名打者」に抜擢する。この試合がプロ初スタメンだったが、岸川もプロ初アーチでそれに応えた。チームメイトは、「バッティングもすごいけど、それ以上にすごいのが肝っ玉ですよ。先輩から注意されようが怒られようが、平気なんです」と20歳のスラッガーの堂々たる姿に感心する。1988年、南海ホークスはダイエーに身売りするが、大阪球場でのラストゲームで決勝アーチを放ったのは岸川だった。

1988年10月15日、南海の大阪球場ラストゲームで本塁打を放った


 九州移転に伴い門田がオリックスへ移籍したことにより、“ミスター・ダイエー”を託された岸川は、1989年に初の規定打席に到達すると、年間3本のサヨナラアーチを含む26本塁打を放ち、1991年まで3年連続20本塁打を記録。1990年からは背番号8に昇格し、同期入団の佐々木誠とともにダイエーホークス黎明記の顔となる。だが、91年8月9日、近鉄戦での外野守備時に左ヒザ半月板の損傷を負ってしまう。79試合消化時で20ホーマー、61打点と二冠を狙える位置につけていただけに、この怪我が岸川の野球人生の分岐点となった。当初は、1カ月での戦列復帰が予定されていたが、思いのほか重傷でシーズンを棒に振り、1992年7月30日の日本ハム戦での一発が約1年ぶりのホームランだった。1993年からは狭い平和台球場から広い福岡ドームへと本拠地も移転し、オフには西武から3対3の大型トレードで地元九州のスーパースター秋山幸二が移籍してくる。交換要員のひとりは岸川と同い年の佐々木誠だった。ダイエーは秋山を中心とした新チームへと変貌しようとしていた。

長嶋監督に買われた強心臓


ダイエー時代の1994年、打撃の状態が上がらず、6月には巨人へ移籍した


 プロ11年目の1994年、出場機会に恵まれず、6月までわずか1本塁打と低迷。だが、そんな岸川の潜在能力を高く評価していたのが、長嶋茂雄監督率いる巨人軍である。打線は左投手を苦手としており、右の代打も手薄なチーム事情から、6月16日に元ドラ1左腕の吉田修司とのトレードが成立する。29歳で東京行きの決まった岸川は、「巨人は、子どもの頃からの憧れ」と口にする一方で、「トレードといわれた時は、福岡へ移ってから6年間の様々な思いがいっぺんに、頭をよぎりました。やっぱり、寂しいような……」と戸惑いの表情を見せた。

 移籍後は6月28日の阪神戦で初安打も、あくまでバックアッパーという立ち位置から決して出番は多くなかった。しかし、ペナントレース序盤は首位を独走していた長嶋巨人が夏場に急失速したことから、岸川の起用法も変わっていく。中日との僅差の優勝争いを繰り広げ、異様な注目度の中で選手も硬くなってしまう巨人の中にあって、「暗い。ものすごい暗いんだな、このチーム……。それに全体を覆うように、妙なプレッシャーがあるんだ」と他人事のように飄々とプレーする、岸川の強心臓ぶりを長嶋監督が買ったのである。

 125試合消化時点で、巨人と中日が66勝59敗の同率首位で並び、9月29日の名古屋での直接対決が台風の影響で中止となり、仕切り直しの10月1日。本拠地でのヤクルト戦で、巨人は不動の三番打者・松井秀喜が左手のマメを潰し、苦手の左腕・石井一久が相手先発ということもあり、スタメンから外れる。ここで代役三番に抜擢されたのが、岸川だった。もう一戦も落とせない状況で、岸川は貴重なタイムリーを含む4打数2安打1打点の活躍で勝利に貢献。10月2日の同カードでも「六番・左翼」で起用されると、なんと第1打席で岡林洋一から、先制のソロアーチを放つのだ。これが岸川にとって移籍後初本塁打だった。トレード期限ギリギリで移籍してきた男が、長嶋巨人の救世主となったのである。10月5日、6日とヤクルト戦が続いたが、岸川は「六番・中堅」で先発出場している。そして、10月8日の中日との同率優勝決定戦を制した長嶋巨人は、日本シリーズでも西武をくだして日本一に輝くのだ。

 プロ野球史上最高の一戦と語り継がれる“10.8決戦”。もし、岸川をトレード獲得していなければ、長嶋巨人はその一戦にたどり着くことすらできなかったかもしれない。なお、西武を率いた森祗晶監督は、日本シリーズの勝負を分けたポイントに第5戦の岸川の打席を挙げている。

「第5戦は、6回に緒方耕一に満塁ホームランを打たれる前の岸川勝也の打席が、ポイントである。(中略)杉山(賢人)は、パ・リーグ時代の岸川をきっちり抑えている。ところが、際どい内角の球を立て続けにボールと宣告され、前の村田真一と同様にフォアボールを与える。村田と岸川には全く打たれる感じがなかっただけに、悔やまれる」(週刊ベースボール1995年5月22日号)

 そして、勢いそのままに続く第6戦、「六番・左翼」でシリーズ初スタメン出場の岸川は、西武先発の工藤公康から、3回裏に右翼線へ貴重なタイムリー二塁打を放つ。パ・リーグ時代から工藤を得意としており、勝てば日本一という大一番でもマルチ安打を記録してみせた。

逆転V“メークドラマ”の一員


巨人では勝負強い打撃で勝利に貢献した


 巨人移籍1年目、岸川は打率.206、1本塁打、5打点。チーム在籍4シーズンでも通算7本塁打と打撃成績だけを見れば、期待ハズレと批判されても仕方のない数字が並んでいる。だが、1994年シーズンの最終盤、岸川は間違いなく巨人のラッキーボーイ的な存在となっていた。1996年には、オフの右ヒジ遊離軟骨の除去手術で春先は出遅れるも、94打席で5本塁打を放ち、長嶋巨人の逆転V“メークドラマ”の一員となった。無類の競馬好きとして知られ、ある試合前に馬券を的中させると、長嶋監督がその強運を買って勝負どころで代打起用したこともあったという。

 若い頃はダイエーの四番を打った男が、30代を迎え黙々とベンチ裏でバットを振り己の出番を待つ日々。通算100本塁打まであと10本という状況で巨人にやってきたが、数字へのこだわりはとっくに捨てていた。あるインタビューで、常時レギュラーで出られるチームに移籍すれば、数十本のホームランが打てるのではという質問に対して、岸川はさらりとこう答えている。

「チームが勝つには僕のような脇役も必要でしょう。どんないいバッターでも年間通して打ち続けることは不可能なんですから」(現代1997年5月号)

 落合博満のように主軸を担う大物選手をFAで連れてくる一方で、トレード獲得した岸川のような実力者が脇役の仕事を引き受ける。それが長嶋巨人の戦い方だった。今から、30年ほど前、日本中がその勝敗に一喜一憂した時代があった。1994年の10.8決戦は、プロ野球史上最高のテレビ視聴率48.8%を記録。同年の平日ナイター開催となった巨人対西武の日本シリーズは、3戦連続で視聴率40%を超えた。1996年のオリックスとの日本シリーズも初戦が43.1%、2戦目が43.3%とサッカーのワールドカップ日本代表戦のような凄まじい高視聴率を叩き出している。

 いわば、長い球史において最も人々から見られたチームが、90年代中盤の長嶋巨人だった。そこで、欠かせない名脇役として、輝きを放ったのが岸川勝也だったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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