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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/屋鋪要】「ゴミをゴミ箱に捨てられるようなもの」戦力外通告に激怒…元盗塁王を救った長嶋茂雄の一本の電話

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

球界に衝撃を与えた大量解雇事件


巨人時代の屋鋪


「『屋鋪くん、君はFAの権利を持っているよね。どうする?』と球団側から聞かれ、僕はピンッと勘が働いた。端的に言うと、球団側としては僕にFAを選択してほしかったのである。FAを選択した場合、獲得したい球団から横浜ベイスターズに対し、年俸の1.5倍に相当する補償料が支払われることになるからだ。そのような移籍の妨げになる“足かせ”をはめられるなんて真っ平だった。すぐさま『自由契約にしてください!』と訴えた」(ノーサインで走れ!/屋鋪要/小学館)

 1993年11月8日、横浜ベイスターズの屋鋪要は球団からホテルに呼び出され、“解雇通告”を突きつけられた。「ゴミをゴミ箱に捨てられるようなもんですからね。忘れられませんよ、一生ね。11月8日を」と屋鋪は怒りを露わにしたが、他にも高木豊市川和正ら総勢6人の選手が戦力外となり、大量解雇事件は球界に衝撃を与える。この年のオフからフリーエージェント制度が導入され、横浜は巨人の駒田徳広の獲得に動いていた。駒田の年俸と補償金を合わせると約3億円と見られていたが、それは解雇されたベテラン陣の総年俸とほぼ同額だった。

快足を武器にホエールズ、ベイスターズで活躍した


 34歳の屋鋪は1993年のシーズンが終わると左ヒザの半月板の手術に踏み切り、翌年の復活を期してリハビリに励んでいた。かつて1986年から3年連続で盗塁王に輝いた屋鋪の脚力は、球界最速クラスと称され、毎年オフのプロ野球大運動会では、100メートル走で11秒台前半の記録を叩き出し、3年連続優勝。あまりの速さに大会の盛り上がりを考え、4年目からはエントリーを外されるほどだった。若手時代は、「八番打者が危険を冒して盗塁する意味がどこにあるんですか」と走塁に対する意識も低かったが、主に三番打者として起用された85年に前年の11盗塁から58盗塁へと大幅増。打撃でも打率.304、15本塁打、78打点とキャリアハイの成績を残した。86年と87年は2年続けて48盗塁でタイトル獲得と、“スーパーカートリオ”の中心を担い、口髭がトレードマークのスピードスターはチームの顔となる。

長嶋監督が獲得を熱望


長嶋監督の熱いラブコールもあり、巨人に入団を決めた


 だが、屋鋪がどれだけ活躍しようと、当時の大洋はBクラスが定位置だった。もっと高いレベルの優勝が狙えるチームでプレーしてみたいと考える屋鋪はある夜、遠征先の広島の台湾料理屋で、思い切った行動に出る。巨人の王貞治監督が店に来ると聞きつけ、直接会って「巨人に入りたいです!」と直訴するのだ。実際に1987年のオフには巨人の槙原寛己とのトレード話が報じられたが、大洋の古葉竹識監督が「相手が誰であろうと、出せるわけないでしょ」と一蹴し実現することはなかった。球団は、当時24歳で10勝を挙げた槙原が交換相手でも屋鋪には釣り合わないというスタンスだったのだ。それが6年後には、チームが大洋ホエールズから、横浜ベイスターズへと生まれ変わり、世代交代の波に飲み込まれ、あっさりとクビを切られてしまう。当時はまだ球界も主力選手は生涯一球団で現役をまっとうすることが美徳とされ、マスコミでは「人まで不良債権扱いしてよいのか」(サンデー毎日1993年11月28日号)と横浜ベイスターズの非情なリストラを問題視する報道も相次いだ。

 30代になると両ヒザの故障にも悩まされ、93年は61試合でわずか6盗塁と盗塁数も激減していた屋鋪だったが、横浜から自由契約となり、すかさず動いたのが巨人だった。長嶋茂雄監督が屋鋪の獲得を熱望したのだ。横浜最終年と同じ推定年俸4800万円の現状維持という好条件が提示され、数年前に移籍を熱望した巨人からの誘いに屋鋪は移籍を即決する。大洋時代は入団時に、阪神ファンの父親が掛布雅之と同じ番号を希望して「31」をつけていたが、巨人では「00」となった。球団初の背番号00の選手の誕生である。

ミスタープロ野球からの気遣い


 1994年の年が明けると、主力選手の原辰徳から多摩川での自主トレに誘われ、巨人でのスタートを切った。長嶋監督からは、「髭を絶対剃るなよ」と言われたという。指揮官は、FAで中日から移籍してきた落合博満や、屋鋪に大人しい選手の多いチームの雰囲気を変えてほしかったのだ。しかし、開幕直後に屋鋪は痛恨のミスを犯す。4月12日の横浜スタジアム、古巣・横浜との対戦で途中からセンターの守備固めに入ると、8対8で迎えた9回裏にロバート・ローズが打ち上げたフライが瞬間最大風速17メートルの強風と豪雨に流され、左中間へ。屋鋪は捕球できず、記録上は二塁打でチームはサヨナラ負けを喫してしまう。守備と足を期待されたにもかかわらず、移籍してすぐのミスに屋鋪はひどく落ち込んだまま帰宅するが、その夜、自宅の電話が鳴る。長嶋監督からだった。

「ああ屋鋪、きょうはご苦労さん。別に用事ではないんだけど、いやな思いをしていると気の毒だと思って電話したんだ。あのローズのフライ、あんなのは君が捕れなければ、誰も捕れないんだ。あんなコンディションのなかで野球をやること自体が間違いで、君のミスでもなんでもない。きょうはゆっくり休んで、またあす頑張ってくれ」(わが友 長嶋茂雄/深澤弘/徳間書店)

 真夜中、ミスタープロ野球からの気遣いに屋鋪は感激する。さらに古巣の横浜ファンも温かかった。翌13日の同カード、背番号00が移籍後初盗塁を決めると、相手の一塁側横浜ファンから大きな拍手が送られた。やがて屋鋪はレギュラーへのこだわりは捨てて、守備固めや代走の役割を受け入れ、守備練習に励むのだ。

日本シリーズでの美技


西武との日本シリーズで好プレーを見せ、日本一に貢献


 1994年の屋鋪の個人成績は、87試合で打率.138だが、年間を通してわずか34打席しか立っていない。8月12日の阪神戦では、「一番・中堅」でスタメン出場すると2安打2得点としっかり仕事をしたが、長嶋監督は「屋鋪的起用」(=守備固め)という表現を使い、守備に不安のあるダン・グラッデンヘンリー・コトーに代わる試合終盤の外野を背番号00に託した。35歳の肉体は8月28日には左ヒザを痛め登録抹消と満身創痍だったが、チームは中日との最終戦で“10.8決戦”を制して、屋鋪はプロ入り以来初の優勝の美酒を味わった。そして、西武との日本シリーズを迎えるのだ。

 第2戦、1対0と巨人1点リードで迎えた9回表、二死二塁の一打同点の場面で、西武の五番打者・鈴木健の放ったライナー性の打球はセンター前への同点タイムリー……かと思われたが、守備固めに入っていた屋鋪がこれをダイビングキャッチ。すでに全盛期のスピードはなかったが、経験がもたらす打球予測で肉体の衰えを補った。巨人が逃げ切り、対戦成績を1勝1敗のタイとした。前日、11失点の大敗を喫していた巨人にとって、屋鋪の美技はシリーズ全体の流れを変えるビッグプレーとなった。なお、この試合で完封勝利を飾り、試合後に外野まで駆け寄り屋鋪と歓喜の抱擁を交わしたのは、先発の槙原寛己だった。奇しくも、1987年オフに交換トレードが報じられたふたりが、チームメイトとしてともにヒーローになったのである。そして、長嶋巨人は4勝2敗で西武を下して初の日本一に輝く。

 通算1146安打、327盗塁の屋鋪が、巨人時代に記録したのは在籍2年間でわずか10安打と10盗塁にすぎない。だが、試合終盤に起用され仕事をする現役晩年の勇姿は、毎晩の地上波テレビ中継を通して、日本中に強烈な印象を残した。屋鋪要は、まさに記録より、記憶に残る活躍で長嶋巨人のジョーカーとして重宝されたのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
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