“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 ヤクルトにいたままでは……
「一茂は大リーグよりも日本のプロ野球、特に父親のジャイアンツの結果のほうが気になるらしく、ホテルへ帰ると、『巨人はどうしただろう?』と決まって聞くので、私は仕方なく東京へ電話を入れたものだ。『逆転勝ちだってよ』と伝えると小躍りして喜んだ」(わが友 長嶋茂雄/深澤弘/徳間書店)
1980年夏、大リーグ観戦ツアーに参加した中学3年生の少年は、異国の地から父が指揮を執る巨人の成績を気にかけていたという。当時14歳の長嶋一茂である。結局、長嶋監督はこの年限りで退任。長い浪人生活へと突入するが、12年後の1992年秋、ついに巨人監督の座に復帰した。宮崎での秋季キャンプ初日に36社、総勢154人の大報道陣が背番号33を追いかける異様な熱気の中、長嶋監督は、11月21日のドラフト会議で4球団競合の
松井秀喜(星稜高)を自らの手で引き当て、さらに12月16日には
ヤクルトから息子の一茂を金銭トレードで獲得する。現場復帰したミスタープロ野球に加えて甲子園のスター松井と長嶋ジュニアまで加わり、未曾有の長嶋巨人フィーバーが幕を開けた。実はこのとき、一茂は残留か移籍か、二転三転した末の電撃トレードだった。1992年シーズン、26歳の一茂は自主トレで
落合博満(
中日)に弟子入りするも、ヤクルト首脳陣との関係が悪化し、自ら希望してドジャース傘下の1Aベロビーチ・ドジャースに野球留学へ旅立つ。この渡米に反対していた父の茂雄は、直後に意外な行動に出る。第一次長嶋政権でコーチを務めた、大洋ホエールズの
須藤豊監督のもとを訪ねるのだ。
「大洋の監督をしていた92年の4月ですよ。横浜球場で、もうすぐナイターが始まるという時にミスターが突然、やってきた。監督室の前に立ってるんだもん、ビックリですよ。『どうしたの?』って聞いて、部屋の中に促したら、今までに見たことのない顔で『スーやん、一茂を獲ってくれないか』と言うわけですよ。野球人・長嶋ではなく、親の顔だったね」(スポーツ報知2025年7月19日付)

92年はドジャース傘下の1Aへ野球留学を行った
当時の大洋は右打者が補強ポイントだったこともあり、トレードに動くが、ヤクルトの
野村克也監督は、交換相手として前年15勝を挙げた
野村弘樹を要求してきた。1991年に4本塁打の控え内野手の対価で若きエースという、実現するはずのない選手指名の裏には、野村監督の長嶋一派に対する意地もあったのだろう。使う気もなければ、出す気もない。このとき、父・茂雄はヤクルトでの息子の立場を悟ったはずだ。立教大からドラフト1位で入団して、すでに5年が経とうとしていた。このままではアメリカから帰国後も干されて、年齢だけを重ねて手遅れになる。「再生可能なリミットは28歳」というのが持論の茂雄は、シーズン中に多忙な合間を縫ってアメリカのフロリダを訪ね、球場で一茂のプレーを見届けたあと、下宿先のリビングでバット片手に真夜中まで息子に打撃指導をしたという。
父が動かした電撃トレード
1992年、野村ヤクルトは初優勝を飾るが、一茂はプロ入り以来初めて一軍出場なしに終わった。そして、父の巨人監督復帰が決定した直後、10月9日にヤクルトの桑原潤オーナーが「長嶋さんがどうしても(一茂を)欲しいというのなら考慮しなくてはいけない。親子の仲を裂くわけにはいかないでしょう」と発言したことから、にわかに「巨人・一茂誕生」のムードが高まるが、受け入れる側の巨人の保科昭彦球団代表がこれを否定する。ヤクルトの秋季キャンプのメンバーから外れた一茂について聞かれると、「あくまで一般論ではありますが、親子が同じチームというのは、何かと都合が悪いのではないでしょうか」とつれないものだった。一方で一茂の圧倒的な人気と注目度は健在で、ダイエー、
ロッテ、
オリックス、
日本ハムら観客動員に悩むパ・リーグ各球団が獲得に名乗りを挙げたが、11月4日に一茂は東京・東新橋のヤクルト球団事務所で相馬和夫球団社長と話し合い、ヤクルト残留が決まった。

92年オフ、電撃的に巨人へのトレードが決まった
それでも、茂雄は一茂の獲得を諦めなかった。巨人は1992年のドラフト会議で5人を指名して、支配下選手は計69人となったが、70人枠までの「あと1枠」が空いていた。12月15日夜、一度は消えたと思われたトレードが電撃的に成立するのだ。当時の『週刊文春』では、12月10日、茂雄自らヤクルトの相馬社長に電話で一茂譲渡を申し入れ、15日に読売新聞社の渡邉恒雄社長からOKをとりつけ(事前に渡邉社長に近い人を通じて真意を伝えてもらっていたという)、夜9時にはヤクルト桑原オーナーに最終確認の電話をかけて、一気に話をまとめた様子がリポートされている。最後は野村監督も「親子が違うユニフォームを着て対決というのも、お互い違和感があるだろう」と移籍を後押しした。これにより父と子から、監督と選手へ。名球会のハワイでの行事をキャンセルしてまで、記者会見に臨んだ長嶋監督は、「人さまのお子さんより厳しく見るのは当然です。本人もかなり追いつめられた環境下にいることは分かっていると思います」と父親としての胸の内を語った。だが、12月22日に巨人球団事務所で行われた入団発表で、当の一茂本人は厳しい表情を崩さず、笑顔なきまま巨人のユニフォームに袖を通した。
「(父が長嶋茂雄だから騒がれることは)まあ、こういう質問は百万回くらいされてるから、その関係の質問が出ると『ウンザリだな』って条件反射的に心が閉じちゃうって気持ちもある。しゃべりたくないってね。友だちとかには『監督の息子だ』とか面と向かって言われたことないんだよ。ただ、小学校の何年かな、陰で言われてさ、なぐってやろうかと思ったけど……(笑)」(小学六年生1993年7月号)
一茂はプロ6年目のゼロからの再出発という意味を込めて、「背番号00」を希望するが、1993年1月11日に行われたスタッフミーティングで、長嶋監督がそれを却下して「36」に決定した。「ボウズの背番号? 何番だっていいんですよ、そんなの」という指揮官の素っ気ない言葉の裏に、周囲はあえて息子とは一線を画そうとする父の顔を垣間見たという。
少年時代からの夢がかなった夜
1993年の宮崎春季キャンプは空前の盛り上がりを見せた。長嶋監督と一茂の父子鷹、ゴールデンルーキー松井のフリー打撃の柵越え数が連日スポーツ紙の一面を飾り、宮崎総合運動公園内にある宮崎市営球場には、週末になると5万人ものファンが集結した。若貴兄弟による大相撲ブームやJリーグ開幕を控えたサッカー人気に押されていたプロ野球界が、「長嶋茂雄」という切り札投入で息を吹き返したのである。
キャンプ二軍スタートとなった一茂だが、2月12日に一軍合流すると、オープン戦でプロの攻めに戸惑う松井とは対照的に、打撃で猛アピールする。3月6日、小倉球場でのダイエー戦試合前に長嶋監督から「ヘイ、ボーイ」と声をかけられ、ノックを受けた背番号36は、二打席連続ホームランを放つのだ。3月13日の近鉄戦では、「四番サード長嶋」のスタメンアナウンスに藤井寺球場が沸いた。オープン戦で3割を超える打率に3本塁打、9打点という好成績を残した一茂は、4月10日の横浜戦で「六番・左翼」の開幕スタメンを勝ち取る。親の七光りではなく、実力でチャンスを掴んだのである。初戦こそ無安打に終わるも、2戦目で移籍後初安打初打点となるタイムリーを放ち、チームの開幕連勝に貢献した。

93年4月23日、甲子園で行われた阪神戦で移籍後初アーチを放った
4月23日の阪神戦、左ふくらはぎ痛で欠場の
原辰徳の代役として「七番・三塁」で先発出場した一茂は、第2打席で
仲田幸司から甲子園の左翼席へ移籍後初本塁打を叩き込む。これがセ・リーグ3万号のメモリアル・アーチでもあった。他の選手が打てばベンチを飛び出してハイタッチをする長嶋監督も、このときばかりは殊勲の息子をどう出迎えていいか分からず戸惑うような表情を見せたという。この試合、猛打賞を記録した一茂は興奮のあまり寝つきが悪く、早朝に宿舎近くのキヨスクでスポーツ新聞をすべて買い込んだ。これが、父親が指揮を執る巨人軍でヒーローになるという少年時代からの夢がかなった夜であり、同時に巨人の長嶋一茂が最も輝いた夜でもあった。
その後、左投手対策で先発起用されたかと思えば、アメリカ留学で飛躍的に守備が上達した三塁ではなく、慣れないセンターやライトで途中出場する便利屋のような役割を求められた。一茂はなんとか一軍で生き残ろうと必死に食らいつくが、9月には体が悲鳴をあげる。渡米してF・ジョーブ博士の診断を受けると、高校時代からの古傷である右ヒジ遊離軟骨、右手首のじん帯、右ヒザ半月板の修正手術が必要という診断を受けるのだ。巨人移籍1年目は56試合で打率.216、1本塁打、12打点という成績で終えた。
父から直接、戦力外通告

父と子は96年までの4年間、ともに戦った
巨人2年目の1994年は長嶋巨人初の日本一に輝くが、一茂は右ヒジの痛みを抱えたまま46試合で打率.172。1995年は一軍出場なく、1996年は長時間のバント練習を命じた
土井正三コーチへの舌禍事件を起こし、さらにパニック障害を発症する。二軍の練習場のジャイアンツ球場へ向かおうと車に乗り込んだ途端に過呼吸になり、グラウンドに立つことすら難しくなってしまう。そして、その30歳の秋には父・茂雄から直接、戦力外通告を受けるのだ。
「いろいろあって、本格的に野球に取り組み始めたのは高校一年だけど、野球にのめり込めばそれだけ親父との距離は広がった。成長すればするだけ、親父のすごさがわかるようになるからだ。野球をやればやるほど、親父には追いつけないということがわかったからだ。けれど、巨人の一軍にいれば、俺の一挙手一投足を親父が、監督が見守ってくれているわけだ。それが嬉しかった。忙しい合間に、俺とキャッチボールをしてくれたあの親父がそこにいた」(三流/長嶋一茂/幻冬舎)
昭和の日本で最も有名だった男の息子は、偉大な父の背中を追い、その異常な注目度とプレッシャーの中で9年間プレーし、ヤクルト時代13本、巨人時代5本の通算18本塁打を放った。父が一度目の巨人監督の座を解任に近い形で辞めたとき、息子は「俺が親父の敵討ちをしてやる」と心に決め、本格的に野球をやることを決意する。つまり、その瞬間、“ナガシマの息子”として生きる運命を自ら背負ったのだ。目的は金でもなければ、数字的に成功か、失敗かでもない。「父が監督する巨人でホームランを打つ」ことが、すべてだった。甲子園でセ・リーグ3万号アーチを放ったあの夜、無謀とも思えるその夢を、長嶋一茂は確かに叶えてみせたのである。
文=中溝康隆 写真=BBM