“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 近鉄の象徴的存在

巨人時代の阿波野
「巨人に行ったら、『今年の目標は』と言うと、全員同じ考え方なんだよね。まずチーム。年頭に『今年は15勝』とか『防御率2点台』とか個々が言うんじゃなく、みんな一緒にペナントを取る、とチームの目標を掲げているチームだった」(日本プロ野球偉人伝vol.10「パ・リーグ黄金時代」の72人)
元近鉄のエース
阿波野秀幸は、1994年11月に長嶋巨人の一員となった。その年、日本一に輝いた巨人だが、シーズン70勝の内、左投手が挙げたのはわずか5勝だった。左腕不足の救世主として、パ・リーグで最多勝経験のある阿波野を獲得したのだ。阿波野は、1987年のルーキーイヤーから15勝を挙げ新人王に輝き、1988年の優勝が懸かった
ロッテとの“10.19決戦”のダブルヘッダーでは、リリーフで連投するも2試合目に
高沢秀昭から同点アーチを浴び、涙を呑む。しかし、1989年には19勝でリーグVの原動力となり、歓喜の胴上げ投手に。背番号14は
仰木彬監督率いる近鉄バファローズの象徴的な存在だった。痩身のトレンディエースというイメージとは裏腹に、亜細亜大では三連投も珍しくなく、近鉄入団からの3年間で58完投を記録し、3年連続で220回以上を投げる当時の球界で最もタフなサウスポーでもあった。

近鉄では左腕エースとして活躍した
だが、プロ4年目の1990年、左ヒザに打球が直撃して骨折。5年目には勤続疲労によるヒジ痛や、ボーク判定の基準が変わったルール面にも悩まされる。さらに1990年に入団してきた
野茂英雄が投手タイトルを総なめにして、瞬く間に球界を代表する大投手になったことに、焦りに近い感情もあったという。中継ぎ起用も増え、連続二桁勝利は5年目に途切れ、
鈴木啓示監督に代わった1993年は1勝、1994年はキャリア初の未勝利に終わった。首脳陣との関係も悪化し、プロの投手としてのモチベーションを失い、次第に環境を変えることでそれを取り戻したいと阿波野は思うようになる。
「二軍で調整し続けて、しばらくぶりに一軍に呼ばれても、一度失敗すると次のチャンスがなかった。これで『近鉄での自分の評価は固定してしまったな』と感じ、94年のオフに球団に対してトレードを志願したわけです。球団フロントも『移籍先を探そう』と言ってくれましたが、翌年から投手コーチに就任することになった
米田哲也さんが、『阿波野は出せない』と言って、一度は移籍話が立ち消えになったんです。だから秋季キャンプにも参加しましたが、その間は不安定な気持ちでしたね」(日本プロ野球トレード大鑑 1936-2001/ベースボール・マガジン社)
巨人で復活ならず

94年オフ、トレードで巨人の一員となった
94年の一軍登板は6試合だけで、防御率12.19だったが、チームのために投げ続けてくれた功労者だからこそ、軽く扱うことはできない。それでも、阿波野の希望した通り、1994年11月7日、巨人の
香田勲男との交換トレードが成立する。80年代のトレンディエースも30歳になっていた。巨人で初めて迎えた1995年春季キャンプで、プロ9年目の阿波野は例年以上のハイペースで飛ばした。同じ左腕で
広島からFA移籍してきた
川口和久とは置かれた立場が違う。近鉄時代とは比べものにならない数の記者に囲まれ、繰り返しヒジの状態を聞かれると、思わず「もう、大丈夫なんですから!」と声を荒げる阿波野だったが、全盛期のようなキレのある直球やスクリューボールが投げられていないのは本人が誰よりも自覚していた。視察に来た他球団のスコアラーからは、「阿波野らしい、ボールを指先で切るような感じがない」、「軸足が折れるのが早く、ボールに力が乗らない」と厳しい評価が相次いだ。
巨人1年目の95年シーズンは、24試合で0勝3敗、防御率4.30。長嶋監督は、「阿波野もイメチェンです。栄光や勲章をかなぐり捨てて、やってもらわないと……。対左打者用のワンポイントとして生きていくしかない。この世界は左打者を確実に一人抑えるだけで、メシが食っていけるんですから」(週刊ベースボール1995年9月25日号)となんと一時はサイドスロー転向が報じられたほどだった。1996年も4試合の登板に終わるも、
オリックスとの日本シリーズでは3試合に投げ、計4回を無失点に抑えたのがせめてもの意地だった。危機感を抱いた1997年は、これまで以上の練習量を自らに課すも、わずか1試合の登板に終わる。それも、打者ひとりに四球を与えて降板という屈辱的なものだった。
移籍志願して横浜へ

横浜移籍1年目の98年にはシーズンで50試合に投げ、日本一に貢献した
巨人に働き場所はないと悟った阿波野は、またも自ら移籍志願して、
永池恭男との交換トレードで横浜ベイスターズへ。これでドラフト時に1巡目で競合した近鉄、巨人、大洋(現横浜)の3球団すべてに在籍することになった。そして、1998年に自己最多の50登板。横浜で38年ぶりの日本一となり、結果的に在籍3球団で優勝を経験するのだ。プロ4年目までに58勝を挙げた近鉄のトレンディエースが、横浜ではなりふり構わず勝ち負けのつかない中継ぎ稼業に活路を見出した。
近鉄の投手コーチ時代から阿波野と共闘した横浜の
権藤博監督は、ローテの谷間でよく背番号49を起用した。実績のあるベテランの阿波野が好投すれば、他の中継ぎ投手の刺激になるからだ。近鉄の栄光と、横浜での歓喜、そして巨人での苦悩―――。在籍3年間でわずか29試合しか投げられず、未勝利に終わった長嶋巨人時代を阿波野は引退後にこう振り返っている。
「僕が入団した後、いろんな投手がFAで入ってきて、今から思うと競争にはなっていなかったですね。ジャイアンツのような人気球団は、実際にやった者でないと分からない大変さがあるんです。でも巨人でやれてよかったと思います。ファンの注目度も全然違う。長嶋監督は常にファンのことを考えていて、キャンプ地ではいつも『今日はお客さん何人入ってる?』って、気にしてますからね」(週刊ベースボール2000年12月4日号)
文=中溝康隆 写真=BBM