“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 ほとんどが懐疑的な声
「巨人でマルティネスが活躍しているね。フロントもあなた(
東尾修監督)も見る目がなかった」
1999年8月12日、
西武ライオンズのオーナー堤義明が球場観戦に訪れ、東尾修監督と小野賢二球団社長に対して、痛烈な一言を放った。前年まで自チームに所属していた
ドミンゴ・マルティネスが、1999年シーズン途中に巨人へ入団すると、
清原和博に代わる四番打者を任せられていた。西武時代も、清原のFA移籍後に代役四番として2年連続30本塁打、90打点でパ・リーグ連覇に貢献していたにもかかわらず、首脳陣はマルティネスが太りすぎで、守れず走れないと解雇したのだ。主砲を自ら手放した西武は、結果的に99年はリーグワーストの89本塁打と貧打に泣き、V3を逃した。
西武を解雇された1999年のマルティネスは、ピッツバーグ・パイレーツのキャンプに参加後、メキシカン・リーグのメキシコシティ・レッドデビルズでプレーしていたところに巨人からのオファーが届いた。この年の長嶋巨人は、5月に9勝14敗と一時最下位に低迷。手薄な右の代打要員と四番打者の清原和博が故障がちなこともあり、「代打兼控え一塁手」として、日本で実績のあるマルティネスを緊急補強した。だが、当時の報道では低迷の原因は不安定な投手陣にあるのに、なぜ一塁手を補強するのかと懐疑的な声がほとんどだった。元西武監督で巨人OBでもある森祗晶は、古巣を痛烈に批判している。
「広沢が骨折、清原の故障と右の大砲が戦列を離れたことで、前西武のマルティネスを獲得した。でも待ってもらいたい。守れない、走れないマルちゃんが果たして必要だったのか。代打として使っても、代走の問題がある。一人を使うために二選手が動く。(中略)戦いも補強も場当たり的な方法では決して成功しない」(週刊文春1999年6月10日号)
“マルちゃん効果”を口にした長嶋監督

巨人では2打席連続本塁打の衝撃デビューを飾った
開幕前、「助っ人抜きの純国産打線」を掲げていた長嶋茂雄監督は、「マルちゃんは右の代打として期待しています」とあくまでバックアッパーであることを強調したが、1999年6月4日、巨人球団事務所で入団会見に臨んだマルティネスは、「代打だけでなく守備もやりたい。どんな状況でも最善を尽くす」と背番号48のユニフォーム姿でレギュラー奪取を誓った。もうすぐ34歳になるマルティネスにとって、メジャー復帰は絶望的で、1億円近い年俸を稼ぐためには日本球界で結果を残すしかなかったのだ。
そして、6月19日の
阪神戦。試合前の練習中に長嶋監督は、マルティネスのレフト起用を決断する。本人ですら、ほとんど経験のない外野守備に不安は隠せなかったが、「六番・左翼」で初先発すると、マルティネスはなんと2打席連続アーチの衝撃再デビューを飾るのだ。直後に清原が右ヒザ靱帯を痛めて戦線離脱したこともあり、6月27日には第67代の四番打者を託された。救世主マルティネスの登場もあり、6月に16勝7敗と大きく勝ち越した巨人は首位・
中日を猛追する。
「マルちゃんが打つと、やっぱり打線が活気付くな」と“マルちゃん効果”を口にした長嶋監督は、「三番
松井秀喜、四番マルティネス、五番
高橋由伸」のオーダーで固定。その不安定な左翼守備には投手陣から不満も出たが、清原の復帰後も四番マルティネスを動かさなかった。渡邉恒雄オーナーも、「誰が手放すものか」とその働きぶりを絶賛。最終的に中日に及ばず2位で終えたが、マルティネスは83試合で打率.324、16本塁打、56打点、OPS.946と全部門で清原を上回る好成績を残した。それでも、マスコミやファンは、人気者の清原の復活を願い、一塁を争うマルティネスとのライバル関係を煽る報道も目立った。当時、本人も自身の微妙な立場を自覚して、こんなコメントを残している。
「別に清原選手がいることで、自分がどう扱われるかという心配をしたことはありません。私は代打でもいいし、清原選手が代打で、自分がスタメンでもいい。それは監督が考えて使うことで、采配ですから、こちらは従うだけです」(週刊ベースボール2000年7月24日号)
移籍3年目限りで退団

清原[左]が完全復活すると徐々に出番は減っていった
マルティネスは、2000年の開幕直後は4割を超える打率でチーム三冠王と打ちまくり、クリーンアップを任され打線を牽引するも、7月に左わき腹肉離れで戦線離脱。ファン投票で選出されたオールスター戦も出場辞退した。巨人2年目は111試合で打率.287、17本塁打、64打点、OPS.836と“ミレニアム打線”の一角を担ったマルちゃん。しかし、2000年の後半戦から、清原の完全復活に伴い出場機会が徐々に減り、巨人在籍3年目の2001年限りで退団した。
NPBの5シーズンで通算104本塁打を放ちながらも、大型補強全盛の長嶋巨人では不動のレギュラーとはいかなかった。普段は気のやさしいドミニカンも、報道陣から「清原が復帰しますが?」なんてしつこく質問されると、さすがに不機嫌な顔で声を荒げたこともあったという。
そんな二人のスラッガーが両雄並び立った試合もある。2000年の日本シリーズ、長嶋巨人は
王貞治監督率いるダイエー相手に本拠地で連敗スタートも、指名打者制度が使える第3戦の福岡ドームから「三番一塁・清原、四番中堅・松井、五番DH・マルティネス、六番右翼・高橋」の超攻撃的オーダーで臨んだ。敵地で逆襲の3連勝を飾ると、シリーズの主導権を握り、東京ドームに戻った第6戦で一気に日本一を決めた。あの20世紀プロ野球の大トリを飾った球史に残る“ONシリーズ”で、清原とマルティネスは見事に共存してみせたのである。
文=中溝康隆 写真=BBM