“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 巨人史上最高のビッグディール

巨人時代のマック
「みなさんもマックを見たいでしょうね。広報にいって、何とか一度、みなさんが見られる機会を作るように検討しますよ」(週刊ベースボール1995年2月20日号)
巨人の長嶋茂雄監督は、1995年の宮崎キャンプの記者会見中に新外国人選手の
シェーン・マックのお披露目を報道陣に約束した。宮崎県総合運動公園にはサブ・グラウンドが3面あり、そのひとつに特設されたエア・ドームは球団関係者以外立ち入り禁止となっているため、オレ流調整を続ける
落合博満が納得のいくまでバットを振り込む場所として知られていた。それでも、長嶋監督はファンサービスの一環として、「もう本物の、メジャーのバリバリですからね。ファンのみなさんにも、久方ぶりにいい選手を取ったな、といわれるはずです」とマックの打撃練習公開を解禁したのだ。半年前まで大リーグのミネソタ・ツインズで四番を打っていた31歳の現役メジャー・リーガーは、2月26日と遅めのチーム合流だったが、背番号12のユニフォーム姿を披露すると、マウスピースを口にして、1100グラムを超えるマ
スコット・バットを軽々と振り回した。
1994年シーズンに日本一に輝いた長嶋巨人は連覇を狙い、ストーブリーグでなりふり構わぬ大型補強に邁進していた。その補強の目玉が、2年契約で総額8億円という、あの
ウォーレン・クロマティをも上回る巨人史上最高のビッグディールで入団にこぎ着けた超大物、シェーン・マックである。
当時、MLBは1994年8月12日から1995年4月2日までの232日間にわたる史上最長のストライキの真っ只中で、野球をプレーできる環境とジャパンマネーを求めて、大物メジャー・リーガーたちが続々と来日を決意した。巨人がマックに提示した年俸は、ツインズを110万ドルも上回ったという。古巣のマックに対する評価は、肩に不安がある外野手で、あくまでトレード候補のひとりだったのだ。すでに日本のバブル好景気は終わっていたが、シアトル・マリナーズが高額年俸のケン・グリフィー・ジュニアを抱え切れなくなり、1年10億円で巨人に売り込みがあったと報じられたのもこの頃だ。1994年のMLB平均年俸は約1億3800万円で、現在のメジャー平均年俸の約8億5000万円と比較すると、今ほど日米の経済格差がなかったことも彼らの異国での挑戦を後押しした。
前年のマックは、右肩手術とストの影響で81試合の出場ながらも、ツインズで打率.333、15本塁打、61打点の好成績を挙げていた。1992年の日米野球では、巨人で同僚になる
川口和久から本塁打を放つなど、メジャー屈指の左キラーとしても知られ、1994年の対左投手は打率.418をマークした。その獲得には長嶋監督も大ハシャギで、3Aでマックの弟がプレーしていると聞けば「将来、弟も呼んで“ビッグマック”と“リトルマック”で売り出そうかな」とご機嫌にダブルマックプランのリップサービスだ。
トップバッターに定着

来日1年目は打率.275、20本塁打とまずまずの成績を残した
実はマックは、巨人の長年の獲得ターゲットで、UCLAの学生だった1984年には実際に契約の話を持ちかけ、ツインズ移籍前の1989年にも巨人入りの可能性があったのだという。ロサンゼルス五輪の野球決勝戦で、アメリカ代表の一員として日本代表と対戦する縁もあった。
「ストライキになる前から、日本で野球がしたいということを代理人にいっていたんだ。もし、ストライキだけがボクの来日を決意させたとすれば、1年限りの契約にしただろうが、実際は2年契約だし、もし巨人が4年契約したいといっていれば、それでサインしていたと思うしね」(週刊ベースボール1995年2月27日号)
「七番・中堅」で迎えた
ヤクルトとの開幕戦は音無しで、3戦目には送りバントを命じられたが、直後の横浜戦で放ったNPB初安打が満塁ホームランというド派手なスタートを切る。しばらく打率1割台と日本の野球への適応に苦しむも、4月15日の
阪神戦から一番起用されると、これがハマった。16日の同カードでは2号アーチに逆転の2点タイムリーで来日初のお立ち台に。以降、トップバッターとして定着する。1995年の長嶋巨人は、ヤクルトから獲得した
ジャック・ハウエルがシーズン途中に帰国するなど大型補強が機能せず3位に終わるも、マックは120試合で打率.275、20本塁打、52打点、12盗塁、OPS.796と及第点の成績を残した。元メジャー・リーガーだからと日本野球を下に見るような態度は見せず、
武上四郎打撃コーチの指導で足を上げる新フォームに挑戦したり、貪欲に同僚の落合に打撃の教えを請うこともあった。
“メークドラマ”に貢献も……

来日2年目も長嶋監督[左]のもとで好成績を残したが、契約更新には至らず
ストレス解消のカ
ラオケへ出かけたり、ヤクルトの
トーマス・オマリーから薦められた大相撲にも夢中になるなど日本生活にも慣れた2年目は、「三番・中堅」で開幕を迎え、いきなり3安打の猛打賞スタート。落合や
松井秀喜とともにクリーンアップを担った。朝からウエイト・トレーニングを黙々とこなし、フェンスを恐れないアグレッシブな外野守備や激しいヘッドスライディングでチームを鼓舞しながら、グラウンドを離れるとファッション誌『MEN’S CLUB』のモデル撮影をノリノリでこなす意外な一面も。チームメイトたちとの関係も良好で、巨人の選手としては初めて東京ドームの広告看板直撃弾を放つと、「ビッグボードホームラン賞」のビール・清涼飲料水1年分のギフト券を裏方に配る心遣いもできるナイスガイだった。
1996年シーズン終盤、落合が死球を受け故障離脱すると、マックは第63代四番打者として“メークドラマ”と呼ばれた逆転優勝に大きく貢献してみせた。2年目は127試合、打率.293、22本塁打、75打点、12盗塁、OPS.842と前年より成績を伸ばしたが、この優良外国人に対して巨人は契約更新せず、
オリックスとの日本シリーズで敗退直後に解雇してしまうのである。翌1997年、外野の要を自ら放出した巨人はBクラスに沈んだ。長嶋巨人が連れてきた外国人野手では、最も結果を残した選手にもかかわらず、2年目の7月は1本塁打とスランプに陥るとやや長引く傾向があり、過小評価されてしまった感は否めない。なお、落合は自身の現役引退直後、マックにこんな最大級の賛辞を贈っている。
「巨人時代に一緒にプレーしたシェーン・マックは、私の現役時代に出会った最高の外国人選手と言っても過言ではない。とにかく野球に対して真面目。試合でも練習でもよく悩んでいたが、その悩みのレベルも高く、悩みを解消するのも早かった。どんなに年俸が高くても置いておきたい選手だったが、お金持ちの巨人がなぜ彼を解雇してしまったのか。私は、巨人が2年続けて(97、98年の)優勝を逃した理由のひとつに、マックの解雇があると思っている」(野球人/落合博満/ベースボール・マガジン社)
文=中溝康隆 写真=BBM