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【大学野球】早大・小宮山悟監督が「早稲田大学野球部」に愛情を注ぐ理由

 

雑音をシャットアウト


8月31日、早大大隈会館で記者会見が開かれた[写真=BBM]


 2019年1月1日から第20代監督として早稲田大学野球部を指揮してきた小宮山悟監督が任期満了に伴い、11月30日に退任する。東京六大学リーグ戦で4度の優勝へと導き、24年春から25年春にかけては3連覇を達成した。後任には、足立修氏(松商学園高-早大-プリンスホテル-プリンスホテル監督-松商学園高監督)が12月1日に就任する。8月28日に大学側からリリースがあり、31日午後に退任会見を東京都内の早大大隈会館で行った。9月12日には秋季リーグ戦が開幕する。このタイミングでの公表になった経緯を、小宮山監督自身が会見冒頭で明かした。

「私が監督になるタイミングのときも同様で『次、誰だ?』という話が学生たちにどれだけ影響があるかということを、メディアの皆さんがきちんと理解できていないのではないかということがあったので、リーグ戦が始まる前にすべてを公表して、雑音をシャットアウトするという目的でシーズン前の発表ということです。退任が11月30日ということが周知(早稲田大学が2024年8月7日、24年12月1日から2026年11月30日まで2年間の再任を発表)されている中で、退任した後の後任が誰だという話に、おそらく皆さん方が興味を持つでしょうから、そうなったときに選手がリーグ戦を戦っている中で、後任は『〇〇らしい』だとか『誰々だ』みたいなことで報道されることによるマイナスがちょっと怖かったものですから、足立さんにもご無理を言って、名前を公表させていただきたいということでご理解いただけました。退任ということですが、任期満了の以上でも以下でもございませんので、最後のシーズンに部員の力、すべてを結集して、天皇杯奪還に向けて頑張ろうと。4年生にとってはその秋が最後のシーズンになるので、ことさら最後がどうこうなんていうことが重要なキーワードではないので、目の前の試合一つひとつしっかりと戦おうと思っています」

 目の前の戦いに集中してほしいという、学生のためだった。8月の新潟・南魚沼キャンプで副将・岡西佑弥(4年・智弁和歌山高)に小宮山監督の「指導法」について聞いた。

「グラウンドではあまり、選手とはしゃべらないんです。練習に来て、ベンチや観覧席に座って、自分たちの動きを見て判断するんですけど、その視点がすごいんです。少し動き悪かったら『アイツはここが痛いんだろう』とか、すぐに察知する。観察力のレベルが違います。首脳陣と学生の幹部が毎週末にミーティングを行う際も、そこを見ていたか、みたいな感じのところが山ほどあるんです。いつ見られているか分からないので、自分たちは気が抜けないです」

 1901年創部の早稲田大学野球部には、信条の一つに「練習常善」がある。「早稲田の野球部の教えは(初代監督の)飛田(穂洲)先生の『一球入魂』しかないと思っています。それを今の学生に植え付けるのが仕事」と、日々、安部球場で向き合ってきた。昭和の早稲田でプレーした小宮山監督と、令和の学生との気質の差。それを埋める作業に情熱を燃やした。

「当時と比べて足りないのは、我慢強さです。歯を食いしばるっていうことができない連中が多すぎるので、そこの部分を何とかしてやろうと、指導に携わってまいりました。志を持って、神宮の舞台に早稲田のユニフォームを身にまとって、早稲田のために頑張るという思いのある奴は、歯を食いしばって頑張れば、野球の神様がきちんとそれなりのことをしてくれるはずだ、と。 その気持ちがない奴は、いてもらっていては迷惑だから、俺の目の前から消えろ、というぐらいのことは彼らには言っています。世の中的に、それがパワハラというふうになるのかもしれないんですけど、でも、言葉をかけた連中にしたら、歯を食いしばる、『今に見てろよ』という、その負けん気が培われる。7年半終わって、最後のシーズンが残っていますけど、ちょっとやそっとじゃへこたれないぐらいの連中になりつつあるとは思います」

達成感ではない充実感


8月、南魚沼キャンプでの一コマ。早稲田大学野球部は練習時、上下真っ白のユニフォームで汗を流すのが伝統である[写真=矢野寿明]


 エンジの「WASEDA」のユニフォームは、厳しい練習を乗り越えた選手25人しか着ることは許されない。そのステータスについて、小宮山監督は語った。

「選ばれし者しか身にまとうことができない早稲田大学のユニフォームということで言うと、試合に出る者たちは、それ相応の覚悟を持って神宮の舞台に立つということなんでしょうけど、どちらかというと、普段の上から下まで真っ白のユニフォームというのが早稲田の、言ってみたら伝統みたいなものですから。その白いユニフォームが泥で汚れてという時代と違って、いま(活動拠点の安部球場は)人工芝になって、そこまで汚れなくなってしまったので、どこか寂しい感じはしますけど、ただ、そうは言っても、下級生の連中の本当に必死になって食らいついている姿であったり、4年生になって要領を得て、ある程度のことを難なくこなせるようになって、1年生の時はとんでもなかったのにな、みたいなことを思い返すような日々が、ここ数日、退任が決まってから考えるようになりました。残り3カ月。 学生たちとも、良い思い出ができるようにボールを追いかけようかなとは思っています」

 東京六大学リーグ戦が行われる神宮球場での時間は、大学4年間の活動期間における一コマに過ぎない。WASEDAのユニフォームを着るために、血のにじむような努力をする日々の練習のほうがはるかに長く、厳しく、教育現場である学生野球においては尊いのである。

 南魚沼キャンプのメーングラウンドであるベーマガスタジアムは、内野が土である。全体練習後の特守が合宿の名物メニュー。小宮山監督はノックバットを手に、右へ左へと球際の打球を打っていた。学生たちは指揮官の「愛」に応えようと、必死にボールを追う。ユニフォームは真っ黒である。達成感ではない充実感。必死に取り組んできた練習量。ここ一番での微差が、勝敗を分けるのだ。

指導者の魅力とは


南魚沼キャンプで、厳しい視線で練習を見守る。細かな動きも見逃さない [写真=矢野寿明]


 練習で、すべてが決まる。小宮山監督は芝浦工大柏高から二浪の末に早大へ進学。努力の末にエースの座を勝ち取り、4年時には第79代主将を務め、リーグ戦通算20勝。ドラフト1位でロッテに入団し、メジャー・リーグのマウンドも経験し、NPB通算117勝を挙げた。

 その原点は早稲田。早稲田大学への思い入れは、誰にも負けない自負がある。小宮山監督の野球人生を語る上で、この「二浪」が肝なのである。「2年間、石井連藏の教えを受けることができた予備校期間だったのかな、と。野球の神様が差配してくれたと、勝手に解釈しています」。小宮山監督が大学3年時に石井監督が再任(1958〜63年、88〜94年)。石井監督は飛田先生の水戸一高、早大を通じての後輩である。「学生野球の父」から薫陶を受けてきた。小宮山監督がストレートで入学していれば、石井監督との出会いはなかった。今回の任期満了での退任を、どのように報告するのか。尊敬する恩師は、2015年に他界している。

「(仮に)ご存命で石井さんの前での報告となると、余計なことはたぶん言わないので……。『11月30日をもって退任いたします』と言うのみだと思います。で、石井さんの返答で言うと『秋のシーズンが残っているから頑張りなさい』。 それに加えて恐らく『もう勝たなくていいんじゃないか』と。なぜならば、勝っちゃうと石井さんの優勝回数(4度)を抜いてしまうので、同じぐらいにしておいたほうがいいんじゃないのかなぐらい……。そんなたぶん、洒落た返事をするかなと思います」

 小宮山監督は現役引退後、野球評論家として活動。早大・岡村猛元監督が率いた12年から3年間、母校の特別コーチを務めたが、フルタイムの指導者は早大監督が初めてだった。指導者の魅力について聞いた。

「魅力的かどうかというと、頼まれて引き受けるということに関しては、命をかけてやろうという気にさせてもらえる仕事だとは思っています。それこそ現役引退の時にマリーンズサポーターに近い将来このユニフォームを、という話をさせてもらったんですけど、あれからもう20年近く経っています。俺がロッテの選手だったと知っているマリーンズサポーターは誰もいないと思うんですよ、プロスピの解説者だと思っている。あの時に口にした手前、その可能性があるのであれば、そういう準備もしないといけない」

 この8年間、身を削る覚悟で母校を指揮し「学生の人生を預かったようなもの」と、1日24時間のほとんどを早稲田大学野球部のために捧げてきた。自宅から安部寮に向かい、早朝から監督室で1日の練習のことを考え、夕方まで安部球場に立ち続けた。練習を終え、監督室に戻ると、多岐にわたる仕事をこなし、帰宅するのは夜である。

部屋に飾っている大切な手紙


8月25日、神奈川大学野球連盟と東京六大学野球連盟との交流試合では、試合前の打撃投手を買って出た[写真=BBM]


 8月25日。神奈川大学野球連盟77周年記念事業として、東京六大学野球連盟選抜と交流試合(横浜スタジアム)が行われた。試合前の打撃練習。ヘルメットをかぶった小宮山監督は、約30分間の打撃投手を「完投」した。60歳とは思えない投球で、現役時代に「精密機械」と呼ばれた抜群のコントロールを披露。猛暑の中で腕を振ったのも、この秋、天皇杯奪還を目指す学生のため。リーグ戦で対戦する各5校の中心打者との「対戦」で映像、数字では分からない豊富な生のデータを、横浜から活動拠点の東伏見へと持ち帰ったはずである。

 さて、後任監督の足立修氏は早大に1982年入学、年齢で言えば小宮山監督の2学年上。ただし、小宮山監督の「二浪」により「入れ替わり」という間柄になった。ストレートであれば2年、一浪であれば1年の接点があったわけだが、足立氏の大学卒業後の1986年入学という「上下関係」となったのである。しかし、ここでもドラマがあった。

 小宮山監督は高校3年夏、早大の練習会に参加している。旧・安部球場でブルペン入りすると、将来性のある投球ぶりは、指導者、現役部員の目に留まった。そこで世話をしてくれたのが、当時2年生の足立投手だった。

「1年目(現役)のときは調子に乗ってチャラチャラやっていましたけど、さすがに一浪をしたら受かるだろうと思っていたのに、落ちたときには相当、打ちひしがれていました。そのタイミングで実は足立さんから手紙をもらいまして、頑張れという激励に加え、早稲田の野球部に入ることがどういうことなのかということも含めて『孤高なるものを求めて』というコメントを添えた手紙は、今でも部屋に飾ってあります」

 結婚披露宴は足立氏が勤務していたプリンスホテルで挙げたという、深い縁もある。監督退任後は「一OBとして、他のOBと同じような稲門倶楽部員として、全力でバックアップするつもりでいます」と早稲田愛を語る。立場が変わっても、母校を支援し続ける。

 最後にエピソードを一つ。早大は昨秋、大学として2度目となるリーグ4連覇を逃した。明大は早大との直接対決となった第6週、開幕8連勝で優勝を決め、第7週でリーグ史上6度目の10戦全勝優勝を遂げた。早大は第8週の早慶戦で集中力を保つのが難しかったはずだが、連勝でシーズンを2位で終えている。最終戦となった慶大2回戦。当時の4年生・尾瀬雄大(トヨタ自動車)はリーグ戦通算100安打に王手をかけていたが3打数無安打、あと1本を打つことができなかった。閉会式を終え安部寮に戻ると、4年生にとって最後の試合後ミーティングが行われた。小宮山監督はこの日のウイニングボールを、尾瀬に手渡した。4年間、誰よりもバットを振る姿を見てきた。無言の労いのメッセージ。尾瀬はその場で号泣した。学生たちは、常日ごろから厳しい指導を受けているが、その言葉には裏がある。理解しているつもりでも、その深い「愛情」に気づくのは、卒業してからになる。

取材・文=岡本朋祐
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