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青学大の恩師・河原井正雄氏が明かすヤクルト・石川雅規が46歳までプレーできた理由

 

青学大では2年春からエース


2年春から青学大の主戦。来る日も来る日もマウンドに立ち続けた[写真=BBM]


 NPB球界最年長、46歳のヤクルト石川雅規が9月2日、今季限りでの現役引退を表明した。青学大時代、4年間指導した河原井正雄氏が、教え子に労いのメッセージを送った。

1999年、2年時の全日本大学選手権決勝で早大を下し、3年ぶり3度目の大学日本一へと導いた[写真=BBM]


 引退発表前に連絡があり「ご苦労さん。長い間、よく頑張ったな」という言葉をかけました。今季初登板、先発した8月27日の巨人戦(神宮)はテレビ観戦していましたが、あのボールを見て正直、悲しくなりました。もう、たまらなかったです……。心の中では「早く交代してくれよ」と叫んでいました。最後のバッターが(青学大OBの)泉口(泉口友汰)だったというも、何かの縁かな、と……。シーズン前に連絡をもらったときにも、こっちが痛く、治ったら今度はこっちが痛くなってと、思うように体が動かなかったそうです。あの巨人戦ではアドレナリンが出て、結果的に左肩を痛めた、と……。やはり、体が持たなかった、ということでした。

 200勝したい――。それが心の支えで、現役生活を続けてきたと、盛んに言っていました。ヤクルトには(青学大で教え子の)坪井(坪井智哉、コーチ)がいるんですが、この夏も戸田球場では「朝、ランニングして、気温40度の中でも投げています」という報告を受けたところでした。200勝に到達できず、悔いが残るのかなと思ったんですが、彼からの報告を聞いていると最後、結果的にも肉体的にもすっきり辞めることができたのかなと、私自身はそう受け止めています。

救世主のフル回転


当時の青学大の活動拠点であった綱島グラウンドでの走り込みが「投手・石川」の原点である[写真=BBM]


 大学時代は2年春(1999年)に台頭してきました。前年春が一部6位で二部優勝校との入れ替え戦で何とか残留して、秋も5位。その99年春も最下位、入れ替え戦を覚悟していたところで、石川が急成長。まさしく、救世主でした。東都を制して、全日本大学選手権で優勝をさせていただきましたが、誰も予想していないことが起きたわけです。ウチは部員数が少ない(当時は4学年で40人程度)ですから、どうしても主戦投手への負担が大きくなる。

 来る日も来る日も石川を起用。2年秋、創価大との明治神宮大会2回戦では延長18回(引き分け)を一人で投げ切った。235球。あの当時は誰も、何も言いませんでしたが、今考えれば、とんでもない起用でした。でも、故障をしなかったんです。投げ方が良かったのと、綱島のグラウンドをずっと走っており、強じんなスタミナが根底にありました。試合後、合宿所に戻ると、近くの健康ランドに連れて行き、サウナと水風呂でコンディションを整え、栄養たっぷりの食事もさせました。私の中で、できる限りの世話をしたのも、思い出としてあります。

 ところが、4年春に左肘を痛め、最後のシーズンは登板できませんでした。ドラフトでは評価が分かれ、実際、回避した球団もありました。でも、ヤクルトだけは「絶対に通用します」と獲得に名乗りを上げてくれたんです(自由獲得枠)。振り返れば、1999年のシドニー五輪予選からのバッテリーになりますが、古田(古田敦也)との出会いが大きかったと思います。力で抑えるタイプではない石川の良さを引き出してくれた。もちろん、本人の努力もありますが、ヤクルトというチームがチャンスをくれたのも、ここまで長くプレーできた要因かと思います。

 プロ入り後はケアに気を配り、あの小さな体で、46歳までよく投げたと思います。球団関係者によれば、石川は人望があるらしいですね。スワローズの投手陣の見本になっている、と。人間的にも優れていると聞くと、私としてもうれしい限りです。ただ、もう1度、神宮のスタンドで雄姿が見たかったのが本音です。晩年はいつ投げるのか分からず、なかなか現場に足を運ぶことができませんでした。引退試合があるとは聞いていますが、あの体で投げられるのか……。仮にそういったステージがあれば、ぜひ、石川の生き様を最後に見届けたいと思っています。白髪も増えましたね。本当にお疲れ様でした。まずは、体をゆっくり休めてください。

取材=岡本朋祐
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