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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/ハウエル】「巨人でダメだった」は本当か? 実は松井秀喜を上回っていた驚きの数字

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

移籍前から不安視する声


巨人時代のハウエル


 それは、長嶋巨人の大型補強路線を象徴する移籍劇だった。

 1994年冬、巨人はヤクルトの主軸打者だったジャック・ハウエルと広澤克実を獲得する。同リーグのライバルチームからの主力ダブル移籍は物議を醸すが、FAの広澤とは対照的に、ハウエルは1994年11月8日時点ですでにヤクルトを解雇されており、巨人が提示した推定年俸も1億4500万円とヤクルト時代とほぼ変わらない適正価格で、正確に言えば「引き抜き」ではなかった。それでも、この移籍劇により、野球ファンに長嶋巨人=金満補強のイメージがついてしまった感は否めない。前年の落合博満中日からのFA獲得は、12球団最低のチーム打率.238からの脱却という分かりやすい大義名分があったが、この1994年の巨人は5年ぶりの日本一に輝いていた。にもかかわらず、ハウエルや広澤、現役メジャーリーガーのシェーン・マック、FAで広島川口和久らを立て続けに獲得し、総額30億円補強と話題になった。

 しかし、大型補強は機能せず、1995年シーズンは主力選手が抜けた野村克也監督率いるヤクルトがリーグ優勝を飾り、巨人は3位に終わる。シーズン途中に帰国して退団となったハウエルは、MVPや本塁打王に輝いたヤクルト時代と比較され、巨人では印象に残る活躍もなく、失意のままチームを去ったイメージが強いが、実際の成績を追うとまた違う側面も見えてくる。

 移籍当初から、前年は背筋痛で打率.251、20本塁打と来日以来最低の成績に終わり、シーズン終盤に夫人の病気を理由に帰国していた33歳のハウエルの状態を不安視する声は当然あった。宮崎キャンプでは序盤に左足首のねんざで出遅れるも、紅白戦で木田優夫から満塁ホームランを放ち、全快をアピール。オープン戦でも、2試合連続アーチと結果を残し、四番で起用されると打率.375と打ちまくる。松井秀喜や落合やマックとの注目の四番争いは、ハウエルがリードという報道も目立った。

主軸として活躍を見せた時期


主軸として、その打力を見せる場面は確かにあった


 古巣ヤクルトとの開幕戦のスタメンは、「三番・右翼松井、四番・一塁落合、五番・三塁ハウエル」でスタートするも、ハウエルは4回の打席で一塁ベースを駆け抜けた際に左足かかとを負傷して途中交代。復帰後もなかなか調子が上がらず、ヤクルト戦では力みもありまったく打てず、野村監督からは「ID野球の劣等生」と酷評された。それでも、4月26日の広島戦で移籍後初アーチを放ち、川口の巨人初勝利をアシストすると、6月10日の中日戦では、延長10回に決勝の6号2ランを叩き込む。なお、ハウエルの加入により出場機会を失った原辰徳は、この年限りで現役生活に幕を下ろした。

 開幕ダッシュに失敗してヤクルトの独走を許した巨人だったが、1993年にシーズン5本のサヨナラアーチの日本記録を持つハウエルの勝負強さに長嶋監督も逆襲のキーマンと期待を寄せた。3歳の長女の病気治療による帰国準備のため6月18日の広島戦を欠場したが、6月25日のヤクルト戦では移籍後初の2本塁打を放ち、同カード3連戦で13打数7安打と固め打ち。6月27日の横浜戦でも、背番号40の先制ソロアーチによる1点を投手陣が守り切った。6月終了時で巨人は首位ヤクルトと7.5ゲーム差の3位、ハウエルの11本塁打は松井と並びチームトップタイである。7月11日のヤクルト戦では、ハウエルの意表をつく送りバントが相手の悪送球を誘い、チームも一挙3点。野村監督を「ベンチの用心不足、注意力散漫や」と悔しがらせた。前半戦最終ゲームの7月23日には、中日の山本昌からナゴヤ球場の右中間スタンドへ14号アーチ。これがNPB通算100号となった。こうして振り返ると、1995年シーズンの6月から7月にかけて、ハウエルが長嶋巨人の主軸打者として活躍を見せた時期が確かにあったのだ。

長女の病気を理由に帰国


 だが、結果的にこの通算100号は、ハウエルが日本で放った最後の本塁打となってしまう。7月27日、長女の病気を理由に米国へ一時帰国(夫人との離婚問題も抱えていた)。「2カ月前から考えて結論を出したつもり。娘が病気になってから僕がそばにいてあげないといけない、ということを確信した」(産経新聞1995年7月28日付)と再来日の可能性が低いことを示唆しての離日だった。巨人側はダラスにあるハウエルの自宅までリチャード背古渉外担当を派遣して、再来日を説得するも、本人の意思は固く、8月19日に退団が正式に決まった。結局、この年の巨人は3位に入るのがやっとで、読売新聞社の渡邉恒雄社長はシーズン後に、「優勝を逃したのは桑田の故障とハウエルの途中帰国が原因」と名指しで批判した。それだけ、主砲の離脱はチームにとって痛手だったのだ。

巨人退団後は古巣のエンゼルスでプレーした


 1995年のハウエルの打撃成績は、66試合で打率.279、14本塁打、41打点。この年の巨人の最多アーチは松井の22本塁打だが、ハウエルのOPS.904は松井のOPS.845を大きく上回っている。仮に後半戦も巨人で試合に出続けていたら、30本塁打前後を記録していた可能性が高い。帰国後のハウエルは古巣のエンゼルスでメジャー復帰して、1997年には36歳のシーズンながら14本塁打を放っている。決して、力が衰えたわけではなかったのだ。

 NPB在籍4シーズンで通算打率.291、100本塁打、272打点。ハウエルはその安定感と勝負強さを併せ持った打撃だけでなく、当時ライバル関係にあったヤクルトの野村克也と巨人の長嶋茂雄という、平成球界を代表する二人の監督のもとでプレーした外国人選手としても人々に長く記憶されるであろう。

文=中溝康隆 写真=BBM
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