週刊ベースボールONLINE

長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/バーフィールド】野村ヤクルトへ移籍寸前だった!? 元メジャー本塁打王

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

実績十分の大物外野手


巨人時代のバーフィールド


「開幕の日、きっと私は涙を流すだろう」

 1993年春、巨人の宮崎キャンプ合流初日にジェシー・バーフィールドは、そう口にした。MLB通算241本塁打を放った33歳の大砲は、前年5月に左手首を手術して以来、実戦からは遠ざかっていた。トロント・ブルージェイズ在籍時の1986年に打率.289、40本塁打、108打点の好成績でア・リーグ本塁打王を獲得したスター選手が、1年契約の契約金と年俸を合わせて170万ドル(約2億2000万円)で巨人入りを決断。日米野球でも過去に二度来日しており、1986年が打率.450、4本塁打。ニューヨーク・ヤンキース在籍時の1990年が打率.318、2本塁打の通算6ホーマーと日本の投手を難なく打ち崩してみせた。外野手としてもメジャー屈指の強肩の持ち主として知られ、二度のゴールドグラブ賞に輝いていた。12年ぶりに巨人監督に復帰した長嶋茂雄が、旧知のデトロイト・タイガースのスパーキー・アンダーソン監督へ直接電話をかけて、「スパーキーも手首が大丈夫ならかなりやるぞ、と言っていました」と状態を確認した上で獲得にゴーサインを出した大物メジャーリーガーである。

 バーフィールドは、1993年2月19日20時宮崎着の飛行機でキャンプ地入りすると、室内練習場に直行して40分間のマシン打撃で汗を流し、首脳陣を喜ばせた。ブルージェイズ時代の同僚でともに外野を守るロイド・モスビーが前年から巨人でプレーしており、チームに馴染むのも早かった。3月24日の西武とのオープン戦では渡辺久信から左中間スタンドへ豪快な一発を放ち、相手エースを「確か日米野球でも完ぺきに打たれたんですよ。(横浜の)ブラッグスより上かって? うん、もう全然」と脱帽させた。

西武とのオープン戦で渡辺久から豪快な一発を放った


 そして、迎えた開幕の横浜戦試合前に、ロッカールームでひとり床に視線を落とし、無事に開幕を迎えられたことに安堵し、涙を流すバーフィールドの姿があった。その試合で、背番号29は佐々木主浩の真ん中高めの144キロの直球を左翼スタンドへ叩き込み、来日初アーチを放った記念のボールを、左手首を手術した際の執刀医にプレゼントするために持ち帰るのだ。三ツ矢サイダーがお気に入りで、初アーチにアサヒビールから1年分(365本)の三ツ矢サイダーが送られたことも話題となった。チームの調子が悪いときには、コシノジュンコがデザインしたリバーシブルのジャイアンツジャンパーをビジター用の黄色ではなく、あえてホームのオレンジ色のまま着てミーティングに登場して、「オレンジはジャイアンツの色なんだろ」と長嶋監督やナインに気分転換を勧めて敵地での試合に臨んだこともあった。

決して手を抜かないプロフェッショナル


強肩を生かした外野守備は相手チームにとって脅威だった


 メジャー時代の打撃フォームをいつでも確認できるようにビデオテープを持ち歩き、広尾の自宅でも相手投手の研究をかかさないバーフィールドだったが、左手首の状態はまだ万全とは程遠く、開幕から1ヶ月が経過しても、三振の山を築き、打率1割台に低迷。5月1日には、「打撃の調子が悪いから」と自ら欠場を申し出たが、代わりに外野のスタメンに名を連ねたのが、プロ初出場のルーキー松井秀喜である。バーフィールドは松井の才能を高く評価し、「将来楽しみなバッターだ。人生の第一歩を印した。きょうという日を忘れてはいけないね」とエールを送った。

 バットは湿りがちだったが、全盛期に“ロケットアーム”と称され、MLBで7年連続2ケタ補殺を記録した外野守備は健在だった。5月4日の広島戦では、7回二死二塁から代打・音重鎮の中安打を定位置で補球すると、本塁へ矢のようなダイレクト返球で走者を刺した。その桁はずれの強肩ぶりは、先発・桑田真澄の好返球を称えるガッツポーズとともに繰り返しスポーツニュースで流れるほどのインパクトだった。

 この年の長嶋巨人は主軸の原辰徳駒田徳広の不振もあり、12球団ワーストのチーム打率と極度の貧打に悩まされたが、バーフィールドも“大型扇風機”と揶揄される。最終成績の打率.215は規定最下位、127三振はリーグワーストである。だが、26本塁打、53打点、勝利打点10はチームトップ。OPS.834とそこまでバッシングされるような内容ではない。なお、セ・リーグのゴールデングラブ賞外野手部門では、前田智徳(広島)、新庄剛志(阪神)、飯田哲也(ヤクルト)に次ぐ46票を集めたものの惜しくも4位だった。同僚選手たちも、走攻守にわたり決して手を抜かないプロフェッショナルの姿をリスペクトしていたという。当時のチームメイト、篠塚和典槙原寛己はその印象をこう語っている。

篠塚 ジェシー・バーフィールド(1993)もカッコよかったね。

槙原 バーフィールドは毎日、ライトから返球の練習をしてたんです。肩がすごく強くて、しかも、マジメに練習をしてましたよね。

(週刊ベースボールONLINE『昭和ドロップ』2023年9月12日)

読売新聞も移籍報道


 一時は日本野球に慣れた2年目に期待をかけて残留濃厚と思われたが、チーム再建が急務だった長嶋巨人が、バーフィールドと契約延長することはなかった。そして、ストーブリーグで意外な形で話題となる。なんと、バーフィールドのヤクルト入りが報じられたのである。当時の長嶋巨人と野村ヤクルトは激しいライバル関係にあり、死球やクロスプレーをきっかけに大乱闘になることも珍しくない因縁の相手である。

 1993年12月15日付けの読売新聞には、「ヤクルトが巨人を自由契約となったバーフィールドと7700万で契約」という記事が掲載されている。「契約は1年で、年俸は巨人時代の約半分となる70万ドル(約7700万円)。これに伴い残留の方向だったレックス・ハドラー内野手が自由契約となった」と12月13日には基本事項で合意し、入団は決定的と見られた。だが、その数日後に事態は急展開を見せる。バーフィールドは大リーグのヒューストン・アストロズの春季キャンプに参加すると代理人が表明したのだ。ヤクルトとアストロズの“二重契約”疑惑も報じられたが、12月28日、ヤクルトの酒井清人球団社長はバーフィールドの獲得断念を決断する。アストロズからは、ヤクルトと本人の話し合いで解決してほしいと連絡があったが、最後はバーフィールドが「地元(ヒューストン)で野球をしたい。家族との時間を多く持ちたい。多大な迷惑をかけた」と米国でのプレーを強く望んだという。酒井球団代表は「アストロズにくれてやる、という気分」と不快感を露わにしたが、こうして野村克也監督とバーフィールドの共闘は幻に終わったのである。

文=中溝康隆 写真=BBM
週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部

週刊ベースボール編集部が今注目の選手、出来事をお届け

関連情報

みんなのコメント

  • 新着順
  • いいね順

新着 野球コラム

アクセス数ランキング

注目数ランキング