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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/グラッデン】大乱闘で相手捕手を殴り骨折→「俺を使ってくれ!」メジャー2度の世界一男の壮絶な1年

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

闘志あふれるファイター


巨人時代のグラッデン


「期せずして、上位を打つ打者が来たといいますかねえ。でもどちらかといえば、グラッデンの方が性格的にも一番打者タイプじゃないですか。あれだけの闘志あふれるファイターですから、ほぼ一番に定着ですよ。ウチにはいないタイプですから非常に期待しています」(週刊ベースボール1994年4月18日号)

 1994年シーズンの開幕直前、巨人の長嶋茂雄監督は新外国人選手のダン・グラッデンの一番起用を明言する。前年の監督復帰1年目は首位ヤクルトに16ゲーム差も離された3位に終わり、貧打に泣いた大人しいチームを変えようとFAで中日からオレ流の落合博満を獲得。そして、感情を表に出してチームを引っ張る役割を36歳のベテラン外国人に期待した。グラッデンはミネソタ・ツインズ時代に2度の世界一に輝いているが、1987年のワールド・シリーズでは一番打者として打率.290を残し、初戦に満塁ホームランを放った。1991年のワールド・シリーズ第1戦でも、タッチアップして本塁に突っ込み、アウトになったものの相手捕手を後ろに1回転させるほどの強烈なスライディングを見舞い、チームを鼓舞してみせた。プロレスラーのハルク・ホーガン似の長い金髪がトレードマークで、勝負強さと闘争心を併せ持つファイター。巨人一軍投手コーチの堀内恒夫は、全盛期のグラッデンの印象をこう語っている。

「グラッデンは、俺がワールド・シリーズを見に行ったときに活躍していた。ツインズ時代にはすごい選手だったんだよ。ところが、日本へ来たときには、外野からショートまでしかボールが届かないくらい、肩が壊れていた。昔は、そういう選手が多かったんだね」 (週刊ベースボールONLINE2019年5月27日)

アグリーメントが改められた騒動


5月11日のヤクルト戦で大乱闘の“主役”となってしまった


 1994年のシーズン中に37歳になるグラッデンは、肩に不安を抱えていたが、年俸1億6000万円という好条件を提示されて巨人でのプレーを決断したのだ。メジャー在籍11年で通算1197試合に出場し、打率.270、74本塁打、446打点、222盗塁のリードオフマンの素顔は、キャンプ初日にタンクトップに短パン姿で、氷の入ったウイスキーのグラス片手にホテルを歩き回る陽気なアメリカンだったが、その実力は本物だった。広島との開幕戦に「一番・左翼」で先発出場すると、第一打席でセンター前に来日初安打。二番・川相昌弘の二球目にすかさずエンドランを決め、打球が三塁頭上を越えると一塁から長駆ホームインというグラッデンの果敢な走塁で、1994年の長嶋巨人は幕を開けた。背番号32は開幕から不動のトップバッターとしてフル出場を続け、首位を走るチームを牽引。5月10日のヤクルト戦では4号3ランを放ち勝利の立役者となるが、翌11日にあの事件が起きる。

 その夜、神宮球場の一塁側ベンチからは、野村克也監督が「ぶつけろ! ぶつけろ!」と叫ぶ、大荒れの試合となった。2回表、ヤクルト先発・西村龍次が巨人の村田真一に頭部直撃の死球を与え、怒りの形相でマウンドへ向かおうとした村田は膝から崩れるように倒れ、担架で運び出された。村田は早くも1994年のヤクルト戦で3つ目の死球だった。3回裏、その西村が打席に入ると、今度は巨人・木田優夫が西村の臀部にぶつけ返す。そして、7回表。前夜3ランを放っていたグラッデンの顔面付近へのブラッシュボールで、大リーグ時代に“カリフォルニアの暴れ馬”の異名を持っていた助っ人が激怒。マウンド上の西村を威嚇して、止めに入った捕手・中西親志にパンチを食らわせ両軍ナインが飛び出し大乱闘となってしまう。

 この騒ぎでグラッデン、西村、中西の当事者は全員退場処分となり、翌日に西村に制裁金10万円と出場停止5日間、グラッデンには制裁金10万円と出場停止12日間の処分が下された。12日の同カード試合前、「今日の試合で同じような投球があった場合、投げた投手と監督を即時退場処分とする」と審判団から両監督に通告があり、観客にも場内アナウンスで知らされた。そして、13日の公式戦から、「頭部顔面死球があれば、投手は自動的に退場」とセ・リーグのアグリーメントが改められるわけだ。グラッデンにとっても一連の騒動の代償は大きく、乱闘劇で右手親指と左手小指を骨折して戦線離脱。5月13日昼には、手術を受けるためにアメリカへの帰国を余儀なくされた。

リーグ優勝に貢献もオフに解雇


日本一に輝いた巨人の銀座パレードに参加した


 その時点で打率.272、出塁率.331のグラッデンが1番スタメンの試合は19勝9敗だったが、離脱後の10試合は4勝6敗とチームは急失速。アメリカにいるグラッデンは、トップバッター不在で巨人が苦戦していると耳にすると、倉俣徹通訳のもとに「試合に出たい」と国際電話を入れ、6月16日の横浜戦で予定より早い約1ヶ月で復帰にこぎつける。夏場に打撃の調子を崩したが、長嶋監督は後半戦も主に一番でグラッデンを使い続けた。あの中日との“10.8決戦”では三番・松井秀喜、四番・落合博満、五番・原辰徳のあとを打つ「六番・左翼」で起用されると、二安打を放ち、長嶋巨人のリーグ優勝に貢献している。惜しむらくは、西武との日本シリーズで二試合連続アーチを放った同僚外国人のヘンリー・コトーとは対照的に、グラッデンはシリーズ打率.056と極度のスランプに陥り、日本一となった第6戦ではついにスタメン落ち。トータルで見れば、98試合で打率.267、15本塁打、37打点、2盗塁、OPS.758とそれなりの成績を残したが、ペナント終盤から尻すぼみになってしまった印象が強く、37歳の高齢と1億6000万円を超える高年俸がネックとなり、11月には球団から解雇通告された。

 わずか1年の東京生活だったが、長嶋巨人が最も輝いた1994年シーズンのトップバッターとして、日本の野球ファンに強烈な印象を残した。確かに肩や足は衰えていたが、その燃えるようなファイティング・スピリッツは健在だった。ちなみにヤクルト戦での大乱闘騒ぎの翌日、手負いのグラッデンは神宮球場へ姿を見せて、なんと試合に出してくれとアピールしたという。

「翌日、ダンは右手に包帯を巻いたままの姿で神宮の巨人クラブハウスに現れ、長嶋監督に直訴した。『俺はプレーできる! 頼む、監督、俺を使ってくれ。右手は針金で縛ってでもやる!』。無理なのは本人が一番分かっていたはずだ。しかし、ダンのファイトは計り知れないものがあり、ナインを鼓舞した」(プロ野球現場広報は忙しかった。/香坂英典/ベースボール・マガジン社)

文=中溝康隆 写真=BBM
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