“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。 「スピード・アンド・チャージ」のキーマン

巨人時代のコトー
「いいか、よく聞いてよ。バッティングはパワーだけじゃないんだ。しなりなんだよ。それと体のバネ。当たり前の話になるけど、まずバットにボールを当てなきゃ始まらないんだ。ミートしてから、すべてが始まるんだ! 消しゴムをねじると、すごい勢いで戻るだろう。あの原理がバッティングには必要なんだよ」(週刊ベースボール1994年7月4日号)
巨人の
ヘンリー・コトーは、1994年のオールスター戦までに13本塁打を放ち、クリーンアップを組む
落合博満や
松井秀喜を上回り、前半戦のチーム本塁打王の活躍を見せた。メジャー・リーグでは、“ターボ”と称される俊足を誇り通算130盗塁、88年からは5年連続で二桁盗塁を記録。シアトル・マリナーズ時代の1992年には盗塁成功率92%(23盗塁)、守備でも170守備機会無失策と卓越した走塁技術と堅実な外野守備で知られる存在だった。長嶋巨人が掲げる「スピード・アンド・チャージ」のキーマンを託されたが、巨人と契約を交わしたのが1994年2月18日で、キャンプ合流は2月下旬までずれ込んだため、調整遅れが指摘されていた。33歳のコトーは全盛期よりスピードが衰え、守備練習でも外野からの返球が内野手の前でワンバウンドすることが多く、
簑田浩二守備コーチは「あれでは、使いものにならない。肩に古傷があるなんて聞いてなかったよ」と苦言を呈すほどだった。
だが、
広島との1994年開幕戦において、コトーは「六番・中堅」で初安打を記録すると、翌日の開幕2戦目からは「五番・中堅」に打順が上がり、巨人打線が苦手としていた
川口和久から来日初アーチを放つのだ。この年、コトーは対川口の打率.538、3本塁打と完全なカモにしてみせた。背番号53は4月だけで、川口、
中日の
今中慎二と
山本昌、
阪神の
猪俣隆と各球団のエースクラスの左腕から立て続けに本塁打を放ち、チームの開幕ダッシュに貢献。早くも“左キラー”として定着する。同僚外国人の
ダン・グラッデンは、神宮球場の
ヤクルト戦での乱闘劇で両手指を骨折して長期離脱となってしまうが、コトーは意外性と勝負強さで打線を牽引する。5月30日のヤクルト戦では5打数5安打の固め打ち、6月1日の中日との首位攻防戦では山本昌からの逆転3ランを含む左右両投手からアーチを放つ活躍で、松井と落合の後を打つ五番打者の重責を担った。後半戦に一時打撃不振に陥るも、中日との同率優勝決定戦“10.8決戦”では、4回表に今中慎二からダメ押しの18号ソロアーチを放っている。
懸命に日本野球に適応

中日との同率優勝決定戦では今中からダメ押しソロを放った
トレードマークのスキンヘッドは毎日剃ってオリーブオイルでケア。ジャビットのぬいぐるみとの写真撮影を「幼稚っぽい写真になるから勘弁してくれ」とやんわり断る、硬派な一面もあったと元巨人広報の
香坂英典は回想する。
西武との日本シリーズ直前には、コトーとこんな印象的なやり取りがあったという。
「10月、西武との日本シリーズを控え、チーム全員で決起集会があった。僕は
ヘンリー(コトー)と同じテーブルに座った。ヘンリーは『日本で野球ができて良かった。ただ、家族と離れ離れになることはちょっと寂しかったけどな』とこぼしていたが、ちょうど、その日が僕の誕生日だったことを知ると、ズボンのポケットからクシャクシャになった5000円札を引っ張り出して、僕に差し出し「DRINK!(飲め)」と心憎い気遣いもする男だった」(プロ野球現場広報は忙しかった。/香坂英典/ベースボール・マガジン社)
迎えた西武との日本シリーズ、第4戦まで15打数2安打と不振のコトーだったが、第5戦で
鹿取義隆から「カトリのようなブレーキングボールのある投手が出てくるのを待っていた」と狙い打ちしたダメ押しの2ランを放つ。王手をかけて臨んだ第6戦では、
工藤公康から第1打席に東京ドームの右翼線を破る三塁打でヘルメットを飛ばし激走。
岡崎郁の犠飛で先制のホームを踏むと、1点差に詰め寄られた8回裏の第4打席では、
石井丈裕から左翼スタンドへ貴重なシリーズ第2号を叩き込み、長嶋監督初の日本一を決定づけるのだ。
107試合で打率.251、18本塁打、52打点、2盗塁、OPS.715。最終戦で規定打席にも到達した。走塁のスペシャリストを期待されての来日だったが、日本シリーズでの2本塁打も含めると、きっちり「年間20本塁打」を放ったことになる。来日当初は外角へ逃げるスライダーや日本人投手の間の長さに苦しめられたが、長く日本球界でプレーしたいと願うコトーは懸命に日本野球に適応しようとした。
「フィルダーは、フィルダー。
ガリクソンは、ガリクソン。とにかくオレはメジャー復帰なんて考えちゃいないよ。一年でも長くジャパンでプレーしたいと思ってるんだ。ジャイアンツのユニフォームを脱ぐ時は、オレの野球人生が終わる時。解雇されないためにも、ここ(日本)で全力でプレーしたいんだ」(週刊ベースボール1994年7月4日号)
帰国後はメジャー昇格できず

西武との日本シリーズで全力プレーを見せて日本一に貢献した
一時は残留決定的と報じられたが、1994年シーズン途中に大リーグ選手会はストライキに入っていたため、翌95年にプレーする場所を求めて続々と大物メジャーリーガーたちが来日。巨人もツインズの外野手で四番を打っていた
シェーン・マックを獲得したため、コトーは1年限りで解雇された。当時、横浜ベイスターズの国際担当だった牛込惟浩は、その直後に意外な場所で34歳のコトーと再会している。1995年春、シカゴ・ホワイトソックス対ニューヨーク・
ヤンキースのオープン戦である。とはいっても、スト中のため代替選手たちがかき集められた一戦だ。選手会は、球団の命令で試合に出るようなことがあれば、将来的に選手会の年金や保険制度には入れないと明言していた。メジャー・リーガーやマイナー・リーグの選手も試合に出られない状況だったため、ある程度動ける元選手や直近まで日本球界でプレーしていた外国人選手たちに声が掛かったのである。
「『なぜこんなところでプレーをしている』
なに気なく聞いたつもりだったが、口に出したあとで後悔した。思った通りコトーは敏感に反応した。
『なあに、ストが終わったらメジャーと契約する約束になっているんだ』
明らかにコトーは嘘をついていた。大リーガーによる選手会が、もっとも警戒していたのはスト破りである」(サムライ野球と助っ人たち【旅日記編】/牛込惟浩/三省堂)
ホワイトソックス傘下でプレーしたコトーはその後、メジャー昇格することのないまま現役を引退している。わずか1年の日本生活、されど強烈なインパクトを残した“左殺し”。1994年の日本シリーズ第6戦で本塁打を放ち、出迎える巨人ナインから、スキンヘッドを撫でられた背番号53はこう絶叫した。
「オレはこの日を一生忘れない。オレにとって今日が最高の日だ!」
長嶋巨人が日本中から注目を集めた10.8決戦や、テレビ視聴率が連日40パーセントを超えた日本シリーズの“国民的行事”で、印象的な一発を放ったヘンリー・コトーを多くの野球ファンも忘れることはないだろう。
文=中溝康隆 写真=BBM