1980年創立の二期生

早大・小宮山監督は芝浦工大柏高出身。高校時代の恩師、先輩、同級生が立大1回戦[10月17日]を観戦した[写真=BBM]
持つべきものは、友である。そして、恩師とはいつまでも、教え子のことが気になる。
この日のために、マフラータオル20枚を用意した。
「一球入魂 最後の一球まで! 悟、ありがとう! 芝浦工大柏高校野球部 一期生・二期生」
2019年1月1日、早稲田大学野球部第20代監督に就任した
小宮山悟監督は11月30日限りで、任期満了により退任する。8年16シーズンで3連覇を含む4度のリーグ制覇へ導いた。ラストさい配となった今秋は、すでに優勝の可能性が消滅したが、11月7日からは最終週の伝統の早慶戦が控える。「有終の美」を飾るべく、安部球場で猛練習を積んでいる。
第6週の立大1回戦(10月17日)。神宮球場2階席では、芝浦工大柏高の関係者が小宮山監督の雄姿を見守った。高校3年間、野球部監督として指導した長谷亨さんに、小宮山監督の1学年上の先輩と同級生の計6人。芝浦工大柏高は1980年に創立され、小宮山監督は二期生にあたる。同級生で遊撃手だった寺村泰昭さんは、応援ツアー開催の経緯を語る。
「我々の同期の中でも『この秋、応援に行こう』という話をしていたところ、一期生の先輩から、長谷先生が青森から上京されると聞き、この日に合わせて予定を組みました。長谷先生が起点です。マフラータオルは一期生の先輩方が音頭を取ってくれました。メッセージの部分ですが、本当は『お疲れさん』にしようと思ったんですが、まだ人生は長いので『ありがとう』にしよう、と。長谷先生も喜んでいただいたようで良かったです」
恩師が「ぬるい」と語った練習環境

早大・小宮山監督[左]は任期満了により11月30日限りで退任。残すカードは11月7日からの最終週・早慶戦である[中央は金森栄治助監督、右は日野愛郎部長][写真=BBM]
青森県出身の長谷さんは、日体大で野球部に在籍。体育教員を目指すため勉強に励み、卒業後は都立工芸高校で2年間、臨時講師を務めた。1980年4月の芝浦工大柏高の開校に合わせて求人があり、保健体育科の教員として採用された。初代野球部の監督に就任したのである。1981年、小宮山監督が入学した45年前を回顧する。
「新設校の2年目、小宮山は学校から自転車で1分弱のところに住んでいました。一期生の10数人が野球部を興してくれて、そこに小宮山ら二期生15人ほどが入ってきたわけです(最後まで残ったのは10人)。学校創立当初から進学校を目指していましたので、部活に力を入れて、有力選手をスカウトするというような方針は全然なかったんですが、小宮山の代はそこそこ素質を持っている生徒が入学してきたんです」
NPB通算117勝、MLBのマウンドも経験した小宮山監督は現役時代に「投げる精密機械」と言われた。高校当時から、針の穴を通すほどの制球力に長けていたという。
「身長があり、腕も長い。体の線が細く、球速が速いわけではないんですけど、コントロールが良かったです。私も左ピッチャーだったんですが、制球力がなくて、小宮山に聞いたぐらいです(苦笑)。県内では評判だったようで、当時、甲子園に出場していた我孫子高校が様子見に、本校に練習試合に来ていただきました。懐かしいです」(長谷さん)
「試合では、四球で崩れたりは一切しないピッチャーでした。逆にコントロールが良すぎて、ボールが真ん中に集まりすぎて、たまに打たれることもありました。しっかりゲームメークをしますので、
コールドゲームで負けた記憶はあまりないです」(寺村さん)
3年間で甲子園には届かなかった。夏の千葉大会は3年連続初戦敗退。甲子園は、はるか遠い場所だった。長谷さんは明かす。
「練習は毎日するんですけど、ぬるい練習(苦笑)。グラウンドはラグビー部、サッカー部、ハンドボール部で共用しており、打撃練習ができる時間も限られていました。1日2時間程度。雨が降れば、グラウンドの土の構造上、練習ができない。ゆるい練習でした」
練習後は小宮山監督の自宅に集まり、遊ぶこともよくあったという。
「私の自宅は春日部で、約1時間半をかけて通っていましたので、そのまま帰宅していましたが、近隣のチームメートは立ち寄って和気あいあいと……。そんなチームです。夏休み期間、練習がない日は皆で海へ行ったり、当時は男子校で楽しかったですよ」(寺村さん)
高校生活を満喫しながらも、小宮山監督は先を見ていた。意識レベルが違ったという。
「ここまでビッグになるとは、もちろん誰も想像できませんでした。ただ、当時から芯が強く、リーダーシップもありました。例えば週に1回、各自が自由な課題を決める特殊な授業があったんです。小宮山はピッチング理論をテーマに研究。どこまでも技術を突き詰めるタイプでした」(寺村さん)
「生き生き」としていた同期会

芝浦工大柏高[千葉]の監督として16年指揮した長谷さんは早大・小宮山監督の恩師。神宮での観戦を楽しんだ[写真=BBM]
小宮山監督は東京六大学、神宮球場、早稲田大学野球部でプレーするために、2年間の浪人生活を過ごした。
「私は高校卒業後、内部進学で芝浦工業大学に進んで野球を継続したんですが、東都四部でチーム自体は強いとは言えませんでした。1年後、小宮山から連絡があり、『練習に行って良い?』と。勉強の合間にグラウンドで一緒に汗を流し、打撃投手もやってくれました。今、思えば、ぜいたくな練習ですよね。2年後、早稲田に入ったとき、我々は3年生。同期会があったんですが、丸刈りで来たんです。やっと、憧れの早稲田で野球ができる。俺はこれからやるんだ! とその目は、生き生きとしていました」(寺村さん)
長谷さんは教え子の合格に喜びながらも、恩師として、別の感情もあったという。
「小宮山は3年時、知人の紹介で早稲田の練習会に行ったんですが、高校時代の実績がないため、一般入試で入るしかなかったわけです。そこから2年間、くじけそうなこともあったかと思いますがよく努力したと思います。ようやく合格しましたが、私自身は心配でした。早稲田はウチの高校とは比べられないほど、厳しい環境ですから、つぶされるんじゃないかなって……。なんせ、ぬるい練習でしたからね……(苦笑)。でも、小宮山はガッツがあるので、杞憂に終わりました。早稲田で鍛えた4年間が、基礎になっていると思います。プロでも44歳まで現役を続け、立派な野球人生でした。この秋で早稲田の監督を退任することになりますが『本当に、お疲れ様』としか言いようがないです。ずっと続けていくのかなと思っていたので寂しいですが、次のステージでのさらなる活躍を願っています」
神宮球場2階席の一角は、まるで同窓会のような和やかな空気が流れていた。小宮山監督は芝浦工大柏高のシンボルである。野球には、人を結集させる力がある。
取材・文=岡本朋祐