レインボーブリッジを手がける

ワインドアップから見事なノーバウンド。躍動感のあるフォームは現役時代と変わらなかった[写真=矢野寿明]
マウンド上で飛び跳ねるような往年の投球フォーム。1981年春の「赤門旋風」を思い出すような躍動感ある投球だった。レジェンド始球式(10月27日)で東大OBの大山雄司氏が登場。大きくふりかぶってのワインドアップで、見事なノーバウンドでミットに収まった。
大山氏は東京学芸大付高から1978年に東大入学し、東大歴代4位の通算10勝を挙げた。史上初めて早慶から勝ち点を挙げた81年春は、チーム4位躍進の原動力。東大最多タイのシーズン5勝をマークし「赤門旋風」は社会現象にもなった。卒業後は社会人野球・三菱重工長崎で2年プレー。ユニフォームを脱いだ後は三菱重工で社業に専念。製作工場でレインボーブリッジの建設を手がけるなど、インフラ事業の分野に従事して活躍した。
年間8勝できた要因

大久保監督[左]、石井助監督[右]とは同級生。最高の巡り合わせとなった[写真=矢野寿明]
この日は社会人時代に使用していたグラブを持参。67歳とは思えない見事なピッチングだったが、自己採点は厳しかった。
「(マウンドの高さは)たったの40センチぐらいなんですけど、やっぱりすごく高い場所にいるなというのは、昔と同じ感覚でした。キャッチャーに捕ってもらったので、一応80点としたいです。ただ、もうちょっとスピードが出る予定だったんですが……。いろいろな人からプレッシャーをかけ続けられたので、本番に向けて重圧がかかってきて、すいません。実は飛び跳ねたことで、バランスを崩してしまったんです。うまくいかないですね(苦笑)」
通算10勝(17敗)のうち、4年時に8勝(春5勝、秋3勝)を挙げた。要因を語る。
「幸か不幸か、私たちの先輩は部員がすごく少なくて、今の監督である同期の大久保(大久保裕)、助監督の石井(石井清)にしても1年生から試合に出させてもらったんです。1年生の春、秋はビギナーズラックで勝ちはできなかったですけども、それなりに投げられて。ただ、2年時は1年間、丸々ダメで、出れば打たれるみたいな感じでした。そこでいろいろと考え直し、3、4年生とやり直す機会を与えられたのが大きかったと思います。他大学であれば部員も多く、失敗すると代わりの人間はいくらでもいる。当時の東大はやり直しがいくらでも利いた。前年までに学習したことを次のシーズンで修正できたのが一番の要因だったと思っています」
もう一つの要因を語る。
「私たちがちょうど入学したときに、平野裕一さんが助監督に就任したんです。大学院の助手で、我々はまさに、平野さんが研究する上での『生きる教材』で、ウエートトレーニング、サーキットトレーニングのほか、いろいろな測定をして、当時では斬新な取り組みを実践してきたんです。平野さんは3年時から監督就任で、成果が出たのは4年時。170センチそこそこでも、それなりの体つきになって、他の5大学さんと対抗できるようになった気がします。東大野球部では以来、ずっとその平野イズムが引き継がれているんです」
白球で結ばれた縁と友情

1981年春の「赤門旋風」でバッテリーを組んだ坂本氏と記念撮影。相性抜群の先輩後輩だった[写真=BBM]
東大野球部の現状をこう見る。東大はこの日の法大2回戦で連敗し、10戦全敗でシーズンを終えた。1998年春から58季連続最下位。だが、今春は法大戦で2017年秋以来の勝ち点(連勝)を挙げるなど、存在感を示す。大山氏は「令和の赤門旋風」を期待している。
「我々の時より全然、強いと思います。卒業から45年が経過して、少なくとも投げる、走る、打つ、飛ばす、のレベルは非常に上がっていると思います。接戦の中で勝つという経験をすれば、このチームでも十分、六大学の中で戦っていけると思いますし、今の2年生、3年生を見ていても来年以降、期待できるんじゃないかなと思います」
取材対応が終わると、かつて東大でバッテリーを組んだ1学年下の正捕手・坂本二朗氏(1989〜90年に東大監督)が姿を見せた。大山氏は言った。「坂本がいたから、あの春、5勝できました。ピッチャーが打たれれば、謝る。ピッチャーが抑えれば、褒める。本当に良いキャッチャーでした」。記念撮影に収まる表情は45年前の学生時代に、オーバーラップしているようだった。白球で結ばれた縁と友情は永遠なのである。
取材・文=岡本朋祐