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長嶋巨人にやってきた男

【長嶋巨人にやってきた男/ガルベス】メークドラマの立役者から前代未聞の暴挙まで…助っ人エースが起こした大騒動

 

“ミスタープロ野球”長嶋茂雄監督が巨人を率いた1990年代前半から2000年代前半、多くの大物選手が他球団から移籍してきた。しかし、巨人のユニフォームで過ごした日々はすべてがバラ色だったわけではない。プロ野球界の“ど真ん中”で、時に称賛を浴び、時に苦悩のどん底に落ちた男たちの物語をライターの中溝康隆氏がつづっていく。

クロマティ以来の“快挙”


巨人時代のガルベス


「最初は日本でプレーするということじゃなくテキサス(レンジャース)に行ってトライアウトするということだった。だから日本でプレーすることになったときは正直ちょっと驚いた。でも野球はどこでやっても野球だから、ある意味で自分に与えられたいいチャンスだと思って喜んで日本に行こうと思ったよ」(週刊ベースボール1997年1月20日号)

 1996年2月12日、メジャーリーグのトライアウトへ行くと思っていたバルビーノ・ガルベスは、日本にやって来るなり、宮崎医大でメディカルチェックを受け、巨人の宮崎キャンプに合流した。入団テストに挑戦するためである。ドミニカ共和国出身で米国や台湾球界を渡り歩き、32歳になろうとしている右腕は無名の存在で、当初はマスコミからもほとんど注目されていなかった。だが、謎のベールに包まれていたドミニカンが、2月16日に初ブルペン入りすると事態は急変する。150キロ近い重い豪速球に加えて、異様に鋭く曲がるシュートを披露し、あまりの迫力にブルペンがざわつく。初めて投球を見た長嶋監督も驚き、「15勝くらいいけるんじゃないか」と早くも合格確約とも取れるコメントを残している。この年から、支配下選手の3人の外国人枠が撤廃されたこともガルベス獲得を後押しする。なお、背番号59は、長嶋監督が「ゴーキュー(豪球)」に魅せられ与えたものだった。

96年5月1日の中日戦[ナゴヤ]で山崎と球史に残る大乱闘を起こした


 1996年シーズンの開幕ローテ入りを果たしたガルベスだったが、意外にもデビュー戦では黒星を喫している。4月11日のヤクルト戦、7回まで2失点と好投するも、8回二死二塁から池山隆寛に同点2ランを浴び、続く稲葉篤紀にも二塁打を打たれてマウンドを降り、リリーフが失点を許し負け投手となった。だが、次の登板の中日戦で来日初勝利を完封で飾ると、そこから破竹の5連勝とガルベスの快進撃が始まる。相手打者の内角を抉る攻めの投球スタイルは、中日戦で山崎武司を相手に乱闘騒ぎを起こすこともあったが、シュートでバットをへし折り、内野ゴロの山を築いた。年俸2500万円のガルベスの大活躍により、巨人は台湾プロ野球「兄弟」時代の同僚、同じドミニカ人のマリオ・ブリトーを抑え候補として獲得するほどだった。

 背番号59の舌出し投法や闘争心を前面に出して打者に向かっていく、その強烈なキャラクターは人気となり、6月には「飲用牛乳消費拡大推進協議会」のCMキャラクターに抜擢される。ディレクターは巨人ファンで有名な川崎徹が務め、「カルシウム、不足シテイマセンカ」と日本語で台詞を言うガルベスの姿が日本中で放送された。巨人の外国人選手のCM出演は、あのウォーレン・クロマティ以来の快挙である。

 7月には4勝を挙げ、同僚の松井秀喜とともに月間MVPを受賞。前半戦終了時に10勝は斎藤雅樹と並んでリーグトップタイ、防御率2.36と勝率.769は単独トップに立っていた。後半戦は各球団から研究され、ややペースは落ちたが、最終戦でリリーフ登板をして16勝目を挙げ、斎藤と最多勝を分け合った。この年の長嶋巨人は逆転優勝を飾ったが、“メークドラマ”の立役者は、リーグ最多の203回3分の2に12完投と投げまくり、16勝6敗、防御率3.05という好成績を挙げたガルベスだった。

「まさにジキルとハイド」


 だが、華々しい活躍の裏で、その日の気分で取材をドタキャンしたり、問題行動も目についた。オリックスとの日本シリーズ第3戦ではわずか42球でKOされ、翌日の試合前にガルベスはある騒動を起こしていた。スポーツ紙の報道に怒り、記者をトイレに連れ込んで、閉じ込めてしまったのだ。

「トイレ内にいるガルベスに叫んだ。『何をやっているんだ! 出てこい。出てきて話し合おう!』。何度も叫んだが、返事はなかった。通路付近は報道陣が鈴なり状態。グラウンドでは試合前の打撃練習が行われているが、それどころではなかった。(中略)10分ほどでガルベスは中村広報部長の説得に応じ、記者を解放した。異性との同伴報道に激怒し、当該紙の記者を捕まえるとトイレに監禁したということだった。ガルベスはその後、中村広報部長の厳重注意に大きな背中を丸め、何度も謝罪の言葉を繰り返していた。まさにジキルとハイドである」(プロ野球現場広報は忙しかった。/香坂英典/ベースボール・マガジン社)

 チームメイトたちは「普段は温厚ないいやつ」と口を揃えたが、負け投手になると不機嫌になり、審判の判定への不満を捲し立てる。2年目には年俸8000万円に出来高がつく、前年の年俸2500万円からの大幅アップを勝ち取るも、オフに体重が増えて調整が遅れ、5月上旬まで防御率7点台と不振に喘いだ。それでも徐々に復調しリーグ最多の8完投で12勝を挙げたガルベスだったが、巨人3年目の1998年にあの大事件を起こすのだ。

前代未聞の暴走


98年7月31日の阪神戦[甲子園]では球審にボールを投げつける暴挙


 1998年7月31日、甲子園の阪神対巨人戦で事件は起こった。0対5と阪神リードで迎えた6回裏、マウンド上の巨人先発ガルベスは先頭打者のルーキー坪井智哉を2ストライクに追い込むが、勝負に行った4球目の内角の際どい球を橘高淳球審はボール判定。これで緊張の糸が切れ不貞腐れたような仕種を見せると、直後の5球目の打ちごろのチェンジアップを坪井は右中間席へ2号本塁打を叩き込み、背番号59はKOされた。池谷公二郎投手コーチがマウンドに向かい、投手交代を告げられた後も、ガルベスは審判に対してスペイン語で悪態をつきヒートアップ。長嶋茂雄監督がユニフォームの左袖を引っ張り制止して、ダグアウトに帰らせようとしたが、三塁ベンチ前で振り返ったガルベスは、手にしていたボールを橘高球審に向けて投げつけたのである。

 幸いボールは大きく右に逸れて直撃こそしなかったものの、退場処分を言い渡された背番号59は180cm、107kgの巨体で大暴れ。グラウンド上で止めに入った捕手の吉原孝介はガルベスの肘打ちを食らい流血した。この前代未聞の暴走に翌日、本人はナインに涙ながらに謝罪したが、宿舎の記者会見では「心から申し訳なく思っている」と口にする一方で、「頭の中に、特に二人の審判がいる」と判定への不満を口にした。1998年のガルベスは開幕直後から、繰り返し乱闘騒動を起こしており、セ・リーグからシーズン終了までの出場停止処分が言い渡され、球団からも無期限出場停止と罰金4000万円の重い処分が下される。この騒動が起こった同カードは8月2日にも両チームの死球合戦があり警告試合に。8月3日には、異例の巨人・阪神連名でファンへの謝罪声明が出された。そして、4日の広島戦に長嶋監督は丸刈り頭であらわれる。試合前にはナインの前で、「ファンの批判をきっちり受け止めていることを形に表したかった」と指揮官自ら説明したという。

誓約書を提出して再契約


99年には投手として史上初の1シーズン2本の満塁弾を記録した


 7月末時点でリーグトップの9勝を挙げていたガルベスの離脱はあまりに大きく、このシーズンの巨人は3位に終わり、6年契約が切れる長嶋監督の去就が騒がれるも、最終的に留任。ガルベスも日本シリーズ後に処分が解除され、1999年1月22日付の読売新聞によると、セ・リーグの高原須美子会長と巨人の山室寛之代表宛に「日本に戻り、再び巨人の選手としてプレーする際には、統一契約書第17条(模範行為)を順守することを誓う」との誓約書を提出した上で巨人と契約更新している。再契約には審判団からの猛反発があったが、ガルベスは1999年の開幕投手を務め、因縁の阪神戦で1失点完投勝利を挙げた。この年は打線の援護に恵まれず9勝に終わるも、パワフルな打撃で横浜スタジアムでの場外弾を含む4本塁打を放ち、投手として史上初の1シーズン2本の満塁アーチを記録している。

 巨人最終年となった2000年は開幕6連敗を喫して二軍落ちすると、代理人を通して球団批判を繰り返し、8月2日には右ひざ痛を訴え、自宅のある米国へ帰国した。そして、長嶋巨人が王貞治監督率いるダイエーとの“ONシリーズ”を制して日本一になったことを祝う球団納会の日に、ひっそりとガルベスの退団が報じられるのだ。5年間で通算106試合に登板して46勝を挙げたが、105試合の先発登板中、34もの完投数を記録している。あの無期限出場停止の騒動が惜しまれるが、間違いなく90年代中盤から後半にかけて、長嶋巨人を支えた外国人エースだった。

 なお、テスト入団時に一軍投手コーチを務めていた堀内恒夫のもとには、巨人退団後も「いい酒が手に入った」とガルベスから贈り物が届くことがあったという。

文=中溝康隆 写真=BBM
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