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立浪和義コラム

全盛期の浅尾拓也選手の凄味と不安/立浪和義コラム

 

心配だった疲労の蓄積


現役ラスト登板にナゴヤドームは大いに沸いた


 中日の後輩・浅尾拓也選手が引退を発表し、9月29日にはナゴヤドームで引退試合も行いました。浅尾選手から、これは後日の発表でしたが、引退を決めていた岩瀬仁紀選手へのリレー。ともに戦った仲間として感慨深いものがありました。

 浅尾選手とは、彼が入団時からいろいろと話す機会があり、一緒に自主トレをしたことがあります。見たとおり、明るく礼儀正しい好青年です。

 2007年に中日へ入団した浅尾選手は、私の現役最終年である09年から登板が増え始めました。

 当時、ストレートは150キロ以上、しかもスライダー、フォーク、パームと球種も多彩で、これからきっとチームを支える存在になるんだろうな、と思って見ていました。

 当初は先発からのスタートでしたが、球威があり、制球力もいいということで、いつしか岩瀬選手につなぐセットアッパーに定着。翌10年は72試合登板で12勝3敗1セーブ、日本球界最多の47ホールド、防御率1.68、続く11年は79試合登板で7勝2敗10セーブ、45ホールド、防御率0.41とすさまじいまでの成績を残し、11年には中継ぎながらMVPにも輝いています。

 ただ、私は本当に素晴らしいと感心しながらも、いくらなんでも投げ過ぎじゃないかと心配していました。中継ぎは抑えと違い、自分で登板のタイミグを予測することが難しい。イニングまたぎもありますし、野手の私にも疲労の蓄積が相当なものになるであろうことは推測できました。

強みの裏合わせの不安


 そして、残念なことに悪い予感は的中してしまい、12年からは、ずっとケガ、故障との闘いになりました。今度こそ、今度こそと思いながらの毎日だったと思います。

 マジメで責任感も強い選手ですし、いいときの経験があるだけに「こんなはずはない」「もっとできるはずだ」と悩むことも多かったのではないでしょうか。

 故障が心配だったのは登板過多だけでなく、彼のピッチングフォームにもありました。

 非常にテークバックが小さいので、打者はクイックで投げられているような感覚となり、タイミングが取りづらく、しかもそれでいながら球が速いので差し込まれやすくなります。

 さらに追い込んでからは、同じ腕の振りで投げ込む落ちるフォークボールなど落ちる球があります。制球も良かったので、全盛期は、追い込んでさえしまえば、打たれる予感はまったくしませんでした。

 ただ、これはタイミングの取りづらいコンパクトなフォームと裏腹ではあるのですが、小さいフォームで速い球を投げようという意識があったのか、前のヒザを突っ張って上体を止め、その反動で腕を振るようなフォームになっていました。これは肩、ヒジに自然と大きな負担がかかります。先発のタイプではなかったかもしれませんが、やはりあの2年間の登板数は多すぎたように思います。

 まだ33歳。少し早かったですね。一緒のユニフォームで戦った仲間の一人としては、もう少し長く、浅尾選手の雄姿を見たかったのが本音です。いまはひとまずご苦労さまでした。

写真=BBM

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