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2019野球浪漫

広島・床田寛樹「(ヒジを)痛めたときは“あ、終わったな”これが正直な気持ちでした」

 

4月6日、阪神戦[マツダ広島]で、724日ぶりの勝利を挙げ、プロ2勝目を手にした床田


742日間のトンネル


即戦力ルーキーとして、ドラフト3位で入団した。開幕から先発ローテーションにも名を連ね、4月前半に初勝利。表舞台で輝きを放ち、前途は洋々に見えた。だがその1週間後、ヒジが飛んだ。手術、そしてリハビリ……。華やかさとは無縁の、孤独なトンネルが待っていた。それでも、少しずつ、少しずつ進んできた。そしてやっと立つ、夢見ていた場所。緑のグラウンド。その真ん中にあるマウンド。さあ動こう。広い世界で思い切り。
文=坂上俊次(中国放送アナウンサー)、写真=前島進、BBM

 この冬、ひとり暮らしを始めた。彼は、ハムスターを飼うようになった。名前は「ひまわり」。手で触れると「プププププッ」と鳴く。24歳の実直な青年は、この話題になると表情が和らぐ。

「もともと猫やハムスターが好きでした。癒されますね。あの泣き声について調べてみると、どうやらうれしい気持ちの表現のようです」

 春がやってきた。今年の日差しは、例年より、明るく柔らかに部屋に差し込むようになった。長い冬が終わった。左ヒジの手術でボールを握ることすらかなわない時期もあった。それだけに、この春を格別な気持ちで迎えた。

 不断のリハビリで150キロの快速球を取り戻し、今シーズン、床田寛樹は開幕から先発ローテーションに入った。そして、4月6日の阪神戦(マツダ広島)では6回2失点の好投で、実に724日ぶりのウイニングボールも手にした。

「つらい時期もあったけど、こうやって一軍で勝てて本当にうれしい」

 動こうにも動けない、投げようにも投げられない。焦り、不安、危機感……。そんな724日のトンネルは、限りなく長く感じられたに違いない。

 好事魔多し。漢字の並びだけを見ても、穏やかではない表現である。2年前の春、その状況に見舞われた。ルーキーイヤーの2017年、開幕先発ローテーション入りを果たし、4月5日、中日戦(ナゴヤドーム)では、プロ入り初登板ながら7回途中3失点のデビューを飾り、12日の巨人戦(東京ドーム)ではプロ初勝利もマークした。ただ、3度目の登板が悪夢となった。19日のDeNA戦(マツダ広島)、先発の床田は初回をゼロに抑える上々の立ち上がりだったが、2回、1球目を投げたところで左ヒジが悲鳴を上げた。

「初回は何ともありませんでしたが、痛めたときは、骨が飛んでいったような感覚でした。“あ、終わったな”。これが正直な気持ちでした」

 懸命に続投したが、ボールが走るはずはない。4回でマウンドを降り、登録抹消、初勝利のスポットライトは1週間で暗転となった。そして、7月には、左ヒジ関節内側側副靭帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受けた。全治8〜10カ月、このシーズン中の復帰は絶望的だった。野球が大好きで、天賦(てんぷ)の才にも恵まれた床田から野球が奪われた。

2017年4月9日のDeNA戦[マツダ広島]で失点する床田。無理に続投していたが、実はこのときには、すでにヒジは故障を起こしていた


ダブルで連続ノーヒッター


 少年時代から才能に恵まれていた。「小学校6年は、僕の全盛期でした」。床田は生き生きと思い出を語る。何と言っても、最大の武勇伝は、ダブルヘッダーの2試合連続ノーヒットノーランである。身長は約140センチ、背の順で並ぶと前から2番目、小柄だった。それでもボールは速かった。

 箕面学園高校に進んだが、入学当初の身長は155センチ。投手より外野手として起用されることが多かったが、田中祥雄監督は投手としてのセンスを見抜いていた。「体も小さく、中学でも2、3番手の投手でしたが、投げ方もよく、コントロールに秀でていました。少し背負って投げるような傾向はありましたが、性格も素直で、話をすると素直に聞いてくれました」

 転機は高校2年だった。身長が1年間で大幅に伸び、178センチになったのだ。ボールの力は増し、床田はチームのエースとなっていった。この秋、彼は最高のピッチングを見せる。秋季大阪府大会での1安打完封だ。球数はわずかに72球である。「究極のピッチングは27奪三振より、1試合を27球で終わらせること」。こう力説してきた田中にとっては、最大限に評価できるマウンドだった。「ショートのエラーで走者を出すと、ダブルプレーで切り抜ける。ヒットでランナーを出しても、ダブルプレーでアウトを奪う。素晴らしい内容でした」

 ベテラン監督である田中の教えは一貫していた。「投手は1球目、低めに投げてワンストライク。カウントを悪くすると苦しくなる」。それを実践できるのが、床田の制球力であった。激戦区の大阪にあって甲子園出場はかなわなかったが、その能力は中部学院大でも存分に発揮された。148キロの速球と縦のカーブで大学通算27勝をマーク、16年秋、ドラフト3位で広島に指名された。即戦力ルーキーはキャンプから安定感を見せ、開幕先発ローテーション入りを果たす。それだけに、プロ3戦目での、あの故障が悔やまれる。

「1日1日が長くて……」


 17年夏、人生初の手術だった。左ヒジの靭帯再建手術である。

「手術したらよくなると思っていたので、マイナスには考えませんでした。今まで投げていた球も変わると思って、前の自分は意識せず、新しい自分を作るという意識でした」

 しかし、想像を絶する時間が彼を待っていた。左腕はギプスで固定され、ボールを握ることすらできなかったのである。

「その1カ月間、汗をかくこともできないので、投げられないどころか何もできませんでした。1日1日がメチャクチャ長くて、野球ができないと1日がこんなにも長いのかと思いました。覚悟はしていたつもりですが、思ったよりきつかったです。周りは投げているのに自分は投げられず、モチベーションが難しいこともありました」

 菊地原毅三軍投手コーチ(現二軍投手コーチ)も、そんな床田の姿を目にしてきた

「野球が大好きなだけに、やりたい気持ちが強かったと思います。ほかの選手のピッチングを遠目に見ている姿を見ると、そう感じました。やれることは限られていて、リハビリ、きついランニング、きつい強化、その繰り返しです。長期にわたってプレーできないわけですから、辛抱は大変だったと思います」

 心の支えは、友人や知人の励ましの声だった。特に、箕面学園高の恩師・田中は頻繁に激励の言葉を送っていた。「うちの高校で初めてのプロ野球選手だし、頑張ってほしい思いでした。床田は本当に野球の好きな子だったので、私が知りうる限りの励ましの言葉は掛けたつもりです。高校時代は3連投しても弱音を吐かない選手で、痛いなんていう言葉は聞いたことがありませんでした。それだけに、頑張ってほしかったです」。

 周囲の言葉は、リハビリに向かう床田の力になった。だからこそ、どんなときも野球をあきらめなかった。ボールを握ることすらできないときも、やれることをやった。「ボールの握り方などをイメージしていました。投げられるようになったら、こんな球を投げたいとか考えていました」

 ギプスは外れてもボールは投げられない。そんな時期も、徹底的に下半身のウエートトレーニングに励んだ。入団当初は体重70キロと細身だったが、84キロにまで大きくなった。「もとの自分よりパワーアップしたい」。強い意志と高い理想で、地味なトレーニングにも積極的に取り組んだ。

 冬、彼はキャッチボールを再開した。「思ったより痛みがあって、本当に治るのかな?」と不安にもなった。だが、春季キャンプでは状態が上がりキャッチボールの距離も伸びていった。

満員のスタンドのスタジアムに、ようやく帰ってきた。あとは、故障する前より力をつけたところを披露していくだけだ


上がったボールの質


 18年5月、キャッチャーを座らせて全力で投げることができた。ヒジにも痛みはなかった。「イメージしていたよりまとまっていました」。大野練習場で地道な練習に取り組んでいても、笑顔が増えるようになっていた。

 8月8日の二軍戦で実戦復帰を果たすと、そこからは順調だった。8試合で1勝1敗、防御率2.25。それ以上に周囲の目を引いた数字があった。20イニングでの17奪三振である。

「一軍で通用するかは分かりませんが、自分の思ったところに投げられて、欲しいところで三振が取れました」

 ボールの力が以前より増していたのである。「何もできなくてウエート・トレーニングをやっていたので体が大きくなり、ストレートの質が良くなっていました。去年は、ファウルで粘られ、打ち損じ待ちのピッチングになっていました。粘り負けのフォアボールもありました。それが、空振りやファウルがとれるようになりました。ボールの質がよくなったのかもしれません」

 それだけではない。少ない球数で打ち取る投球術にも進化が見られた。外へ逃げる変化球である。「これまではあまり投げることができていませんでしたが、ボールの握りなどをイメージしてきたこともあって、投げることができるようになりました。もともとボールを小さく動かして少ない球数でのピッチングは目指していたので、外への変化球を投げられるようになったのは大きいです」

 二軍監督の水本勝己も進化を感じていた。「多少は痛みもあったでしょうが、ボールも力強くなっていました。もともとコントロールもよく、けん制やフィールディングを見ても器用です。体も大きくなって、楽しみな存在でした」。それだけに、ファームの首脳陣やトレーナーは密に連携を取り、イニング数や球数を考慮しながら、プランに沿った起用を続けていった。

 耐えて忍んだ時間は無駄ではなかった。ひたすらに取り組んだウエート・トレーニングの成果で体が大きくなり、ストレートの質はアップした。投げられない時間にイメージした外に逃げる変化球が、ピッチングの幅を広げた。「打者を1球や2球で打ち取る。ピンチでは三振を奪う」。床田は、自らの理想像に大きく近づいていた。

「投げられない時間もプラスだったか?」

 ステレオタイプの質問に、床田は簡単にうなずかなかった。当事者からすると、そんなに簡単なものではないのだろう。

「僕は実績もないので、何とも言えません。そのときは焦りしかありません。“このケガのおかげで”なんて言えません」

 しかし、ボールを握れないときも、種をまいてきたのは事実である。頭でイメージを重ねてきた変化球が凡打を誘う。ひたすら取り組んだトレーニングで大きくなった下半身が球威と安定感を生む。なにより、大好きな野球への思いの強さを再確認できた。

 休みの日、ハムスターのケージ周りに箱を並べた。「狭いところにずっといたら、かわいそうですから」。床田は、動き回るスペースをハムスターに与えた。

「ケガだけはしてほしくないですからね」

 あながちユーモアだけではない。それは、好きなものに熱中する時間、好きなものを奪われた時間、両方を知っているからこそ馳せる思いなのかもしれない。

本人にとっては簡単なことではなかったが、左ヒジの故障が床田を心身ともに成長させたことは疑いがない


PROFILE
とこだ・ひろき●1995年3月1日生まれ。兵庫県出身。181cm85kg。左投左打。大阪・箕面学園高から中部学院大を経て、ドラフト3位で2017年に広島入団。ルーキー年にプロ初勝利を挙げるが、左ヒジを痛め戦列離脱。トミー・ジョン手術を経て、今季ようやく復活した。18年までの通算成績は、3試合、1勝1敗0セーブ、0ホールド、防御率5.19。

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