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張本勲コラム

【張本勲の“喝”】ケガはスポーツ選手の宿命だが、私が猛練習を重ねてもケガと無縁だった理由/張本勲コラム

 

“抜くコツ”を知り、正しい技術を身につける。そこまでやっての“自己管理”だ。写真は巨人時代の張本(左)と王


 右手有鉤骨の骨折でリハビリ中だった日本ハム清宮幸太郎が、復帰に向けてフリーバッティングを開始したという。

 ケガは野球選手に限らず、スポーツ選手の宿命とも言えるものだが、清宮には、そもそもプロで戦うための体ができていたのか、そのための練習をこなせていたのかをまず考えてほしい。

 キャンプなどを見ていつも感じるのだが、今は練習量があまりに少ない。目に見えて体が大きくなるウエート・トレーニングには熱心なのかもしれないが、走る、バットを振る、ノックでボールを受けるという基本的な練習量が圧倒的に足りない。

 練習をし過ぎるとケガをする、という間違った考えもある。練習でケガをするとしたら、それはやり方が間違っているのだ。体の動かし方、技術、さらに言えば自己管理の問題である。こういうことを書くと、「また昭和の時代を美化している」と言われそうだが、私に限らず、かつて一流と言われた選手たちは、今の選手には想像もできぬほどの練習をこなし、それでも壊れることはなかった。もちろん、生まれ持っての体の強さはあったが、若いころからの猛練習の積み重ねが自分の血と肉になっていたこともあり、ケガに強い体ができていた。

 そんな私が練習量で“かなわない”と思ったのが1976年に移籍した巨人だ。75年オフ、当時の巨人・長嶋茂雄監督に、「自分の代わりをやってくれ。今のままではワンちゃん(王貞治)がダメになる。自分の代わりをやってくれれば、ワンちゃんが生き返る」と言われ、私は日本ハムから巨人へ移籍した。

「よし、やってやる」という気持ちだったが、生意気に言えば、「パ・リーグの主力打者の力というのをちょっと見せてやろうか」という気持ちもあった。今では考えられないだろうが、当時のパ・リーグの注目度というのはそれほど低いものだったからだ。

 だが、実際に移籍してみて、巨人の練習量の多さに驚かされた。まずヨーイドンでとにかく走る。ワンちゃんや私などは長距離がダメだったから、最初に走っただけで一日の練習を終わりにしたいくらいだった。そこからようやくキャッチボールが始まる。巨人は74年に連覇がV9で途切れ、前年は最下位に沈んでいたが、それでも「これは強くなるに決まっている」と感じたものだ。

 ただ練習量をこなすだけではいけない。特にベテランになってからの話になるが、私がケガと無縁だったのは、“抜くコツ”を知っていたということも大きい。手を抜くという意味ではない。先に書いたとおり、私は若いころから今の選手には想像もできないほどの練習量をこなしたが、だからこそ、これ以上やったらケガをする、という境界線を自分で把握することができ、メリハリをつけることができていた。その境界線も分からず、ただタラタラやるのは単なる“手抜き”。そして、そこまで分かってやるのが自己管理なのだ。

張本勲(はりもと・いさお)
1940年6月19日生まれ。広島県出身。左投左打。広島・松本商高から大阪・浪華商高を経て59年に東映(のち日拓、日本ハム)へ入団して新人王に。61年に首位打者に輝き、以降も広角に打ち分けるスプレー打法で安打を量産。長打力と俊足を兼ね備えた安打製造機として7度の首位打者に輝く。76年に巨人へ移籍して長嶋茂雄監督の初優勝に貢献。80年にロッテへ移籍し、翌81年限りで引退。通算3085安打をはじめ数々の史上最多記録を打ち立てた。90年野球殿堂入り。現役時代の通算成績は2752試合、3085安打、504本塁打、1676打点、319盗塁、打率.319

写真=BBM

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