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野球界の裏方仕事人

ロッテ球団職員へ転身して営業マンを務める元左腕・古谷拓哉/野球界の裏方仕事人

 

スポットが当たることはほとんどないが、野球界に欠かせない縁の下の力持ちである“裏方”を紹介。今回登場するのは、ロッテの元左腕・古谷拓哉氏だ。現役引退から即、球団職員へ転身した営業マン。選手のセカンドキャリアという意味でも、その活躍に注目だ。

戦力外通告と同時の打診


ロッテ球団事業本部営業部・古谷拓哉氏


 初めて“営業マン”として出社した日のことはよく覚えている。2018年1月5日、新年の仕事始め。例年なら自主トレに励んでいる時期だが、慣れないスーツに身をつつみ、JR海浜幕張駅から徒歩でZOZOマリンに併設する球団事務所へ向かった。選手時代は車で通っていた場所。寒さに震えつつも、「意外と駅から遠いんだな」と思いながら、古谷拓哉は新たな人生のスタートに身が引き締まる思いを感じていた。

 駒大岩見沢高から駒大、日本通運を経て、大学・社会人ドラフト5巡目で06年にロッテへ入団。即戦力を期待されながら、なかなか芽が出なかったが、10年に中継ぎとして58試合に登板すると日本シリーズでも4試合で腕を振り、“下克上”と称された日本一に貢献した。13年には先発転向が功を奏して9勝をマーク。貴重な左腕としてチームに居場所を確保していたものの、16年の8月、ピッチャーライナーが左手親指の付け根を直撃する。脱臼骨折のような形となり、手術を余儀なくされた。

 リハビリを経て迎えた17年、36歳となるシーズンに後はない。左手の筋力や感覚が戻り切らぬまま実戦復帰を果たすが、二軍戦でも思うような結果が出ず。それでもピッチング内容については自分が追い求めてきた感覚をつかみかけており、「もし来年につながったら楽しみだな」という自分への期待感があったが、半ば予想していたとおり、戦力外通告を受けた。それでも予想外だったのは、同時にロッテの球団職員への転身を打診されたことだった。

「ありがたかったですね。しかも現場ではなく、事業のほうで声を掛けていただいた。現場では見えないことにも興味はありましたし、同じ野球を違った角度から見ることができる。今まで前例がなかったということもありますし、選手としては後ろ髪を引かれる思いはありましたが、新しい挑戦をしようと決めました」

 このオフ、同じく戦力外通告された黒沢翔太も球団職員への打診を受けていた。ロッテ球団にとって現役引退から現場スタッフやスカウトではなく、即球団職員への転身は過去に事例がない初のことだった。

多くの人の支えを知る


 配属されたのは事業本部営業部だった。「本当にできるのかな、と思いましたね」。最初は営業マンとしてのセールスの仕方以前に、会社のルールや社会人としての最低限のスキルなど覚えなければいけないことが山のようにあったが、36歳の新人にとって周囲の先輩は年下ばかり。だが、そこは古谷の性格が幸いした。

「選手のときから分からないことを聞くというのは当然だと思っていましたし、自分がうまくなりたいと思ったら年齢は関係ない。ましてや聞く相手は年齢が下でも経験のある方たちばかりなので、教えてもらうことに抵抗感はありませんでした」

 職員として球団の中に入り、一番感じたことは「ものすごくたくさんの人に支えられて野球をやっていたのだな」ということ。選手のときはブルペン捕手やトレーナーなど“目に見える”裏方たちへの感謝の気持ちは抱いていた。しかし、実際にプロ野球を興行として成り立たせるためには、さらに数多くの人たちが関わっている。予算を組むことからはじまり、開幕戦に向けたセレモニーの企画、ゲストの人選はどうするか……目に見えなかった“運営する側の視点”に立つことで、試合に対するまったく違ったプロセスを知り、誰もがプロの仕事をしていることをあらためて実感した。

 扱う金額の大きさにも驚かされた。古谷が任されたのは主に法人に向けたセールス。チームのスポンサーやゲームスポンサー、スタジアムの看板広告、シーズンシートなどを提案していくが、個人の感覚からすれば一つひとつがとてつもなく大きな金額だ。「ビジネスとしてのお金のやり取りなので、失敗してはいけない、失礼があってはいけないと、最初はすごくビビりながらやっていました」。

 この点においては、何事もきっちりしなければ気がすまない性格が災いした。プレゼン資料を作るにも完ぺきを求めて時間が掛かる。営業として結果を出さなければいけないということにとらわれ、慎重になり過ぎて前に進めない。「ピッチングでも常に四隅を狙い過ぎて苦しくなり、フォアボールを出してさらに汲々としていた。そうではなくて、もっとアバウトに投げてもいい場面はあったはずなのに」。

野球を通じて得たこと


現役時代にはノーヒットノーランまであと1人の快投も。左は当時の伊東勤監督


 現役引退の際には10年の日本シリーズで登板して日本一を経験できたこと、そして13年6月26日のオリックス戦(京セラドーム)で9回二死からノーヒットノーランを逃したことを思い出深いシーンに挙げていたが、「やっぱり苦労した時期ですよね。いろいろ悩んで、試行錯誤しながら練習していたことのほうが現在進行形で今に生きている」と振り返る。

 30歳を過ぎたころから、周囲の意見により耳を傾けることができるようになり、少しずつ視野が広がっていった。「周りへの人当たりとかもまろやかになっていったと思います」と笑うが、その変化が13年シーズンの9勝に結び付いた。変化を柔軟に受け入れることの大切さは、営業となった今につながっている。

「お客さんにしっかり紹介とセールスはしますが、会話の中でいろいろなことが生まれてくる。そこを柔軟にやっていくことのほうが大事。営業なので数字は求めなければいけないですが、求め過ぎてしまうと、うまくいくこともいかなくなる」

 確かに元プロ野球選手という肩書は、会話の中で最初のつかみとしては武器になる。だが、相手は野球に興味がある人ばかりではない。その中で、いかに野球に興味を持ってもらえるか、野球を知ってもらえるか。そして、いずれはロッテの選手たちを支える存在になってもらえるか。そうした輪を広げていくことこそが、営業として本当に成さなければならないことだと思っている。

 現在、ロッテ球団には古谷と黒沢、そして上野大樹と3人の元選手が職員として働いているが、選手たちのセカンドキャリアを考えたとき、自分たちだからこそできることがあるのではないかとも考えている。

「選手にとってはプロ野球選手として活躍することが一番の夢だし、その真っただ中にいるときに次のキャリアのことを考えるというのはあまり現実的ではない。その中で少しでもいいから視野を広げてほしいと思いながら、一方で野球に集中してほしいとも思う。どうやって野球を終えたあとの支えとなっていけるか。現場も球団の中も知っている自分たちだからこそ、できることがあると思う」

 今は営業としてのプロフェッショナルになることへまい進しながら、いずれは選手と球団の架け橋となるような存在に。そんな思いを抱きながら、古谷は今日も千葉ロッテのために尽くしている。

写真=BBM

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