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話題の「二番打者」を歴史をさかのぼって考える

 

強打の二番打者のルーツは


ミスター・タイガースも最初は二番打者



 8月21日発売「週刊ベースボール9月2日号」では、巨人坂本勇人DeNA筒香嘉智ら従来なら三、四番タイプが定着して話題になっている「二番打者」の特集をしている。

 日本ハム大田泰示のインタビュー、12球団だけでなく、MLBの二番事情などを掲載しているが、そもそも「強打の二番打者」というのは、近年初めて生まれたトレンドというわけではない。
 今回は、その歴史について振り返ってみたい。
 
 1936年からスタートしたプロ野球公式戦。草創期、阪神の二番打者は、のちのミスター・タイガース、藤村富美男だった。セカンド、投手の二刀流で、虎の「四番サード」でにらみを利かせた戦後に比べれば、まだ線は細い。
 ただ、37年秋にはリーグ3位の打率.317をマークし、犠打は0だ。戦前の本塁打が通算3本は物足りないが(それでも36年秋の本塁打王=2本だが)、攻撃的二番打者の先駆けとは言える。
 なお、同時期、巨人の二番は花形選手の一人、水原茂。さほど打撃はよくなかったが、いずれにせよ、二番がつなぎ役という雰囲気は戦前の2強・巨人、タイガースに限ればなかったようだ。

 戦後の1リーグ時代に猛威を振るった阪神ダイナマイト打線の二番・金田正泰は46年に首位打者(.347)を獲得し、49年には打率.302、10本塁打で犠打は3だった。
 ただし、49年のタイガースは三番・別当薫が.322、39本塁打、四番・藤村富が.332、46本塁打、五番・土井垣武が.328、16本塁打。飛ぶボールの時代でもあり、金田の2ケタ本塁打もこの年だけ。強打者というよりは、巧打者だった。

 50年代、巨人の二番打者だった千葉茂は、53年には打率.320はチーム2位、12本塁打はチーム最多タイ(飛ぶボールの後、飛ばないボールの時代だった)、80打点はチーム最多だ。四番でもおかしくなかったが、四番には6本塁打、77打点ながら打率.347で首位打者の川上哲治がいた。

 千葉は右打ちの名手で(右打者)、どんな球でも進塁打にする自信があるのに、水原監督が犠打のサインばかりを出すと嘆いていた。わざと2ストライクにしてから、3バントで決めたという逸話もある(同年19犠打)。

 球史において、強打の二番打者の元祖となると同53年の高卒新人・豊田泰光となる。これは実績に加え、三原脩監督の「流線型打線」のインパクトから来る。
 守備に難がありながら、三原監督から正遊撃手に抜てきされた豊田は、強打を買われ、途中から五番にも入り、9月後半から二番に回って、トータル27本塁打をマークした。
 根底にあったのが、三原の出塁率の高い一番の後、二番に強打者を置き、得点力をアップさせるという流線型打線だった、といいうわけだ。豊田の二番は57年あたりまで続く。

 ただし、あくまで西鉄打線の軸は三番の中西太。ある意味、四番からレジェンド・大下弘を外せないがゆえでもあったかもしれない(理論自体は以前から発表していたが、三原が巨人監督時代もはっきりと具現化はしていない)。

二番最強打者論は誰が言い出したのか


68年オープン戦での巨人のラインアップ



 前述のとおり、三原監督の流線型打線は、イコール二番最強打者ではない。あくまで最強の三番につなぐ第2の強打者だ。
 ただ、おそらくだが、公の場で「二番打者最強論」を初めて口にしたのも、三原だったようだ。

 68年、近鉄監督となった年だ。これは三原がそうした打線を組んだというわけではなく、川上監督の巨人が、オープン戦で当時の球界最強打者・王貞治を二番に据えたことに対する分析だ(川上は特に理由を語っていなかったようだ)。

 三原は一番打者に最強打者を置く打順を逆三角形打線と表現し、「強打者にチャンスが増えるのはいい」と言いながらも、課題として「その前が下位打線となるので、大量点につながらない」とも語っている。
 対して、このときの巨人打線は投手を七番に置き、八、九、一番を一、二、三番と考えて、二番に四番の王だった。

 三原監督は「近鉄でも土井(正博。当時の四番)を二番に」と言っていたが実現せず、王の同年の二番もまた、2試合だけだった。

 ちなみに王は入団から3年目までに10試合で二番に入ったが、一本足打法で打撃開花の4年目以降は、この年のみ。ついでに書いておけば、長嶋の二番はデビューイヤーの3試合だけ。スランプ時のものではあったが、4月10日、大洋・権藤正利からプロ初本塁打は二番でマークした。

「昔は二番=二番打者」は本当なのか


送りバントを代名詞とした巨人・土井正三



 巨人・坂本勇人らの例はあるが、広島菊池涼介に代表されるように、二番打者のメーンストリームは、変わらず小技の巧みなタイプであり、「二番=送りバント」の印象が強いという人は多いだろう。

 この流れの象徴が、65年V9初年度の巨人に入団した土井正三だ。自身2ケタ本塁打はなく、リーグ最多犠打は5度。2年目の66年以降は一番・柴田勲、二番・土井で定着し、土井は「しぶといバッティング」「送りバント」の代名詞のようにも言われた。

 犠打については「そんなにたくさんやったわけじゃなかったんですけどね」と本人が苦笑していたことがある。
 最多は78年の27犠打。V9期間中(65年から73年)に20犠打を越えたのは2回しかない。バントの構えで投手を揺さぶる戦法を頻繁に行い、それがテレビの全国中継もあって印象深くなったのでは、と分析していた。

 加えれば、土井自身は強気なタイプでもあり、無条件の犠打をよしとしたわけではない。それでも「あの2人がいたからチームバッティングに徹しました」とも語っていた。
 王、長嶋のONだ。

 土井の犠打同様、誤解が多いが、「石橋をたたいても渡らない」とまで言われた川上監督ながらV9時代に必ずしもバントが多かったわけではない。9年間でリーグ最多は66年のみ(100犠打)、70年のようにリーグ最少65の年もあった(最多は阪神で118)。

 少し脱線するが、V10を阻止した74年中日Vイヤーの二番は谷木恭平で、名曲『燃えよドラゴンズ』では「一番・高木が塁に出て、二番・谷木が送りバント……」と歌われている。しかし、実際のところ、谷木はこの年、6個しか送りバントをしていない。

 二番イコール送りバント、をより徹底したのは、V9のDNAを持つ指揮官2人だった。1人は86年から西武監督となった森祇晶。88年から3年連続リーグ最多犠打。これは88年から5年連続でリーグ最多犠打をマークした二番・平野謙がいたからでもある。平野は移籍前の中日時代も82、84年と2度のリーグ最多犠打があった。
 当時の西武は投手陣が充実し、先制点さえとれば勝てるという思いもあったのだろう。

 もう1人は81年からと89年から巨人の指揮を執った藤田元司監督だ。チーム全体では、必ずしも多くないのだが、90年から97年まで94年を除きリーグ最多犠打の川相昌弘の存在があった。川相はその後、犠打の世界最多記録をマークしている。
 犠打の名手で言えば、2001年に67犠打のシーズン最多記録をマークしたヤクルト宮本慎也もいる。
 01年のヤクルトはVイヤーだったが、当たり前のことながら、優勝を争う気がないチームはバントが少ない傾向があり、逆に黄金時代と職人的名二番打者は切っても切り離せない関係と言っていい。

 70年代後半から黄金時代を築いた阪急(現オリックス)で言えば、大熊忠義がいた。上田利治監督は「一番の福本(豊)を生かすために」、五番、六番が多かった大熊を二番に置いたと言っていた。確かに福本豊の盗塁をサポートする、あうんの呼吸は絶品だった。

 少し時間が空くが、落合博満監督時代の中日には井端弘和がいたが、この男もまた、くせ者タイプだった(相手チームにとってだが)。

「バントをしない二番打者」はいつ生まれたのか


恐怖の二番打者・小笠原道大



 ダイエーに突然変異のように誕生し、「バントをしない二番打者」と話題になったのが、94年の山本和範だった。.317でイチロー(オリックス)に次ぐリーグ2位の打率を残しているが、前年も打率.301だから成績自体は意外ではない。
 根本陸夫監督からは「好きにやれ」とだけ言われ、山本は「バントしろと言われたらしますよ」とは言っていた。同年ダイエーは強力打線で旋風を起こしたが、その軸になったのが山本だったことは間違いない。
 ただ、王貞治監督となった翌95年は故障のため出番が激減し、オフには自由契約。1年だけの出来事で終わった。

 王監督は巨人監督時代、長打力はないが、84年首位打者にもなった篠塚利夫(和典)を二番に使い、超攻撃野球を目指したが、ダイエーでも01年にはバルデスを二番に据え、打率.310、21本塁打をマークした。「五番に置くと積極性が消えた」と王監督。巨人監督時代からの理想を貫いたとも言える。
 しかし、その後は川崎宗則本多雄一と小技もできる俊足選手を置いた。

 少し時計の針を戻すが、山本同様、バントをしない二番打者で、「恐怖の二番打者」とも言われ、脚光を浴びたのが、日本ハムの小笠原道大だった。
 99年上田監督時代、00年大島康徳監督時代と、ほぼ2年続いている。小笠原は前年の98年は捕手メーンで77試合の出場のみ。99年からファーストにコンバートされブレークした。

 上田監督は小笠原の二番での抜擢の意味について「一塁にランナーがいれば、一塁手がベースにつき、左打者で引っ張り系の小笠原はヒットゾーンが広がる。内野ゴロでも足があるから併殺の可能性は少ない。走者セカンドなら右方向に打つだけで進塁打になるでしょう」と説明していた。

 セでは巨人の長嶋監督も強打の二番打者として、98年から左の清水隆行を二番に置いた。そして01年、新しい二番に原辰徳ヘッドコーチ(当時)が抜擢しようとしたのが、右の強打者で遊撃手の二岡智宏だった。同年は故障もあって途中で外れ、03年から二番に定着したが、「二番・坂本」の原点ともいえるのかもしれない。

 06年にはヤクルト・古田敦也兼任監督が外国人のリグスを二番に置き、一番から青木宣親、リグス、岩村明憲ラミレス、ラロッカの超強力打線を組んだ。
 古田監督は「打線は元気のいい上位から使っていきます。打ち勝たないと、このチームは上にはいけない」と語っていた。
 投手陣に不安があったチーム状態の中で、先制点を奪い、試合を先に支配してしまおうという考えだったのだろう。

 少し面白いのはイチローだ。
 オリックス時代は二番トータルで186打数64安打、打率.344は普通ながら(イチローにしてはだが)、95年以降で二番打者に入った3年の数字を見ると、95年が21打数9安打の.429、97年が29打数12安打の.414、98年が53打数22安打の.415とよく打っている。

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