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惜別球人2020

上田剛史 引退惜別インタビュー 愛し、愛された男

 

ヤクルトの明るさの象徴だった。チームメートに、そしてファンに、誰しもに愛された男は現役引退を決意したときも、明るさを忘れなかった。そんな上田を間近で見てきた人々の思いが交錯する上田剛史への餞(はなむけ)、現役最後の物語──。
写真=松田杏子、BBM

9月16日のDeNA戦[神宮]、9回にフェンスに激突しながら左邪飛を好捕するも、右足首を負傷。宮出コーチに背負われながら、ナインに迎えられる


引退という決断


 誰からも愛された男だ。チームメートは先輩後輩を問わず、監督、コーチ、ファン、メディアからも。

 上田剛史はヤクルトから戦力外通告を受け、現役を引退した。ファンの前でのスピーチやセレモニーはなし。ムードメーカーとして常にチームを盛り上げてきた男は、静かにユニフォームを脱いだ。

「長いこと野球をやらせてもらえた。大好きな先輩、大好きな後輩に出会えた。一生の財産です」。プロ生活14年間を、感慨深げに振り返った。

 コロナ禍により、無観客でスタートした2020年。チームメートが本塁打を打つたびにベンチ脇のカメラに視線を向けるパフォーマンスは「上田新喜劇」と呼ばれ、各球団に波及し、球場に足を運べない全国のファンを笑顔にした。9月16日のDeNA戦(神宮)、3対2の9回二死ではフェンスに激突しながらファウルゾーンへの飛球を好捕して試合を終わらせた。右足首を負傷し、痛みをこらえながらも宮出隆自ヘッドコーチに背負われて勝利のハイタッチに参加。ナインもファンも、満面の笑みを浮かべた。

テレビの前のファンの存在も忘れなかった上田。中継カメラを無表情で凝視する“上田新喜劇”の様子


 11月10日、シーズン最終戦後のロッカールーム。未曽有の1年を終え、一息つこうとした矢先だった。マネジャーから「明日、球団事務所へ行ってくれ」と告げられた。突然の出来事に「もうぼう然。頭がこんがらがっちゃって。誰の言葉も耳に入ってこなかった」。

 打率.125、0本塁打、2打点。数字は残せなかったが、負傷時を除けば一軍に長く帯同して代打、代走、守備固めで幾度も起用されていただけに、自他ともにショックは大きかった。事実、シーズン後半に「剛史さん、これまで本当にお世話になりました」と後輩にからかわれることもあったほど、選手間でも意外だったのだ。戦力外が報道された直後にはツイッター上で「#上田剛史の戦力外に抗議します」のハッシュタグが自然発生した。

代走、代打、守備固めなどさまざまな役割を担った


 現役続行か引退か。神宮球場隣接の室内練習場でバットを振り込んでいる間も悩み続けた。身を引く覚悟を決めたのは「野球をもがいてやって生活していくことも考えた。でも、早く切り替えて次のステージで頑張ったほうが後々いいかな、と。14年間もやらせてもらった。ここで終わるのがいい」との考えからだ。最後の最後まで暖かい声援をくれたファンがいるヤクルト一筋で現役を終えることを選んだ。

チームの潤滑油


 岡山市生まれ。父・恭嗣(たかし)さんの影響で小学校2年から野球を始めた。当時のあこがれはイチロー(元マリナーズほか)。「小学校4、5、6年の夏休みは一回も遊ばなかった。ひたすら練習。食ったら寝て、また練習。それの繰り返しでした」。家のリビングでもあおむけに寝て天井に向けてボールを投げ、送球感覚を養った。時間があればバットを振る野球漬けの日々。徐々に頭角を現し、小学校6年時は投手で全国大会に出場した。母の清子(きよこ)さんとともに両親への思いは強い。「甘やかされていないし、スパルタだったかもしれない。でも、野球中心にずっとやらせてくれた。勉強しろと言われたことはない。それが今につながっている。もっと活躍している姿を見せてあげたかったけど……。本当に感謝しています」と優しい笑みを浮かべた。関西高では外野手として2、3年の春夏4季連続で甲子園に出場。早実の斎藤佑樹(現日本ハム)から本塁打も放った。

 2007年の高校生ドラフト3巡目でヤクルトに入団。現役生活に特に影響を与えたのは、7歳上の青木宣親だろう。ファーム暮らしが長かった上田が3年目を終えたオフに「少しでも近づきたい」と「チーム青木」への入門を直訴した。打撃技術はもちろん、貪欲に向上心を持ち続けるプロとしての姿勢を学んだ。上田は「僕を弟のようにかわいがってくれた。青木さんは僕より僕のことを分かっているんです」と照れくさそうに話した。

 戦力外通告を受けたときも、引退を決めたときも声を掛けられたことに上田は感謝する。「周りからはどうしても『絶対おまえならどこかほかに(プレー先が)あるよ』とか『野球続けろよ』という声が多かった。僕も逆の立場ならそう言うと思う。でも、青木さんは優しいけど、変な同情はしない人。仮に野球人生が終わったとしても、そのあとに僕が困らないようにと思ってくれていることがすごく伝わった。引退を報告したときは『14年もやったんだから、プロ野球選手として十分成功だよ』と言ってくれた」。

2011年には初盗塁を含む6盗塁。足でアピールした


 青木は第二の人生をスタートした弟分にエールを送る。「どんなことをするにしても、生きていくということは大変だと思うんだ。苦しいこともこれからたくさんあるかもしれない。でも、問題に向き合って、一つずつ解決して、前に進んでいってほしい。剛史らしさを持ちながらね。誰とでも付き合えて、人に好かれるのはあいつの才能だから」。

 18年にメジャー・リーグから復帰した青木は「剛史がいたから、あの年は俺もチームにすんなり入っていけた。今の自主トレのメンバーだってあいつが決めたようなもの」と上田に感謝する。西浦直亨宮本丈中山翔太村上宗隆……。選手同士をつなぎ、一体感を高め、ヤクルトを担う若手の成長に一役買った。

 後輩たちも感謝を語る。西浦はしんみり言った。「後輩思いで面倒見もいいし、話しやすい。いるだけでチームが盛り上がる。これから剛史さんの抜けた大きな穴を実感するんだろうな……」。宮本は上田を兄のように慕う。「寂しいです。みんながあれだけ引退を惜しんでいた。自分がどんなプロ野球人生を歩めるかは分からないけど、ファンやチームメートからああやって惜しまれるような、愛される選手になりたい」。昨オフから自主トレをともにした中山は「野球に対してはめちゃくちゃ真剣。すごく頼れる先輩だし、ロッカーでも中心は剛史さん。ベテランと若手、投手と野手。みんなをつないでくれる存在」と敬意を表した。

 18年の春季キャンプでのこと。メジャー・リーグから復帰したばかりの青木と上田、当時新人だった宮本が宿舎へ帰るタクシーで相乗りすることになった。道すがら、車内で後部座席の上田にLINEのメッセージが届く。助手席の宮本からだった。「剛史さん、青木さんに打撃を聞きたいです」。すかさず、上田が隣の青木に「青木さん、丈が話したいって言ってます」とそのまま画面を見せた。青木も「こんなに近いんだから直接言えよ」と反応。車内は爆笑に包まれ、メジャー帰りのスターと緊張していた若手との距離が、一気に縮まった。

 19年に新人王に輝き、主砲に成長した村上は「プロに入って右も左も分からないときから、気に掛けてくれた。落ち込んだときも、ご飯にも連れて行ってくれた」と気遣いに感謝。新型コロナの影響で中止となったが、今年1月の自主トレでは、上田がチーム青木の練習を手伝う予定だったという。

一番の思い出は15年10月2日、リーグ優勝を決めた試合。サヨナラ打を放った雄平に、いの一番に抱きついた


“らしく”生きる


 明るい、ともすればおちゃらけのイメージもあるだろう。15年のリーグ優勝前に山田哲人が会食の様子を写真週刊誌に撮られた際、同席していた上田に黒の目線が入り「知人男性」と表記されたのはファンの間では有名な話。優勝決定後のビールかけなどで、それを持ちネタに笑いを誘った。昨季の「新喜劇」でもアフロのかつらをかぶって、ネット上では賛否が噴出。打席へ向かう際の登場曲で遊ぶことも少なくなかった。

 だが、他人のいないところでは野球と真摯(しんし)に向き合った。ナイター後に帰宅すると、リビングで納得するまで素振りを繰り返し、シーズン中は試合直前まで打撃フォームをビデオでチェックするきまじめさがあった。ベンチからの声で何度もチームを鼓舞した。「ムードメーカーを意識したことはありません。もともと人を喜ばせるのが好きなんです」。焦燥感、危機感、緊張感は極力出さない。それが“上田らしさ”だ。

 10年4月29日、久保田智之(阪神)からプロ初安打。初本塁打は7年目の13年7月13日に大竹寛(当時広島)から。18年9月4日の中日戦ではチームが9回裏に6点差を追い付き、迎えた延長11回に又吉克樹から劇的なサヨナラ3ランを放った。それでも「一番の思い出」は15年10月2日、自らの27歳の誕生日にリーグ優勝を決めた試合という。「満員の神宮。地鳴りのような歓声。鳥肌が立った。まさか優勝を経験できるとは思わなかったから」。歓喜の瞬間を思い起こす顔には穏やかな笑みが浮かんだ。

 エネルギーにあふれた上田らしく、引退決断後はすぐにさまざまな活動を始めた。YouTubeに自身の公式チャンネルを開設し、SNSで情報を発信。多彩な才能を発揮する中で、やはり野球との縁は続く。今後は指導者を目指す。元プロ選手が高校、大学の指導をするために必要な学生野球資格回復の研修も受け「プロに近い選手を見てみたい」と目を輝かせた。

 そしてもう一度、ヤクルトのユニフォームを着ることが目標だ。「もちろんその気持ちはある。一生懸命に野球を勉強しないといけない。教える側には責任があるし、生半可な気持ちではできない。指導者として経験を積みたい」。


 みんなが大好きだった背番号「50」。グラウンド内外で存在感が際立ったその姿は人々の記憶にしっかり刻み込まれたはずだ。そして、これからも、みんなに愛され続けるだろう。

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