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ダンプ辻コラム

不思議なめぐりあわせだった僕の野球人生。ターニングポイントは石川緑さんに言われた一言でした【ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ】

 

ダンプさんが大恩人の一人に挙げた石川緑[阪神時代]。64、65年は2年連続10勝


幸運の後の落とし穴


 つくづく思うんですよ、僕の野球人生は何だったんだろうって。

 地味なのは確かですよ。42歳まで22年と半分もやっているのに規定打席も1回しかないし、ヒットも418本しか打ってない。ホームランも44本だし……。

 ありゃありゃ、ダメですよ、ここは「そんなことないですよ、ダンプさん」って言ってくれなきゃ(笑)。

 自慢じゃないけど、キャッチャーとしては、いろいろな人に評価してもらったんですよ。ただ、すごいとほめられるよりは、嫌がられるほうが多かったかな。広島の監督をしていたときの古葉竹識さんから「お前は試合に出るなよ。俺のときは姿を見せるなよ」と言われたり、大洋時代の監督だった関根(関根潤三)さんから、「他チームの監督が、辻が出てくるとイヤだと言ってる。お前は、そういうキャッチャーなんだぞ」と言ってもらったことあります。どうです? 何だか、すごいでしょ。

 でもね、なぜか少し良くなると、必ず何か起こってダメになるんですよ。そんな繰り返しでした。

 昭和43年(1968年)、江夏(江夏豊)と組んで「よしよし、出番が増えたぞ」と思ったときも、そのオフ、法政大から田淵(田淵幸一)が入ってきて、いきなり大人気です。翌年は、僕がスタメンで出ると、「ダンプ、はよ、田淵に代われ」と味方のファンにヤジられましたからね(笑)。

 昭和46年に初めて全試合で出たときも、「よし、次の年も頑張るぞ」と張り切ったら、兼任監督だった村山(村山実)さんに「ブルペンでコーチの勉強しといてくれないか」と言われちゃった。まあ、それはそれでありがたいかなと思って、そのつもりでやっていたら、村山さんは途中で辞めていなくなり、昭和49年のオフに吉田(吉田義男)さんが監督になったら、「大洋へ行け」と。

 阪神のコーチをやっていたときもそうです。横浜から一軍のコーチで呼ばれ、「よし!」と思っていたら、そのポストに大矢(大矢明彦)が来て、それまでなかった新設の育成コーチになってくれと……。

 何度も何度も、つぶされていますね。ただ、だからと言って人を恨むというふうにはならんかったな。後ろ向いても仕方ないし、それはそれで結構、面白かったしね。人生いろいろです。

 今回からは、僕が「なんでかな」と不思議に思っている話をしましょうか。グチじゃない、いやグチだけじゃないです。以前の話と重なることもあるかもしれませんが、それはもう仕方がない。歳を取ると話しながら思い出すこともありますしね。

僕の野球人生の“不思議”


 最初の不思議は1年目です。僕は昭和37年、都市対抗が終わってからタイガースに入ったんですが、ファームの試合も出てないのにバッキーのテストの相手をしたんですよ。三宮と芦屋の間くらいの海っぺりのグラウンドで。

 バッキーは知ってますよね? 昭和39年に29勝を挙げたでっかい投手で、クニャクニャしたフォームのピッチャーです。8月の頭くらいかな。入団テストだったか、一軍に上げるためのテストだったかは知りませんが、監督の藤本(藤本定義)さんもいたと思います。なんで、そんなテストに俺を使うんかな、と思った記憶があります。手が長いうえに、手元で動くクシャクシャのボールでね。コントロールもまったくないんですごく苦労して捕ってました。

 驚いたのは次の年(1963年)の春です。62年はリーグ優勝をしていたんで、ご褒美にアメリカのタイガースのキャンプに参加することになっていたんですが、なぜか僕も連れていってもらったんですよ。一軍どころか二軍の試合も出てなかったのに、なんで選ばれたのかさっぱり分からん。当時は簡単に海外に行ける時代じゃないし、先輩捕手には随分嫌味を言われましたけどね。

 ただ、普通ならキャッチャーとしての可能性を藤本さんが感じてくれ、それからは……となるわけじゃないですか。でも、これも不思議なんですが、その年(昭和38年)、ファームで「内野をやれ」と言われたんですよ。最初はサードをやったんですが、ライナーが捕れなくて顔の近くをヒュッと通り過ぎたことがあって、危ないとなってセカンドに回った。結局、2カ月くらいやったかな。併殺もできるまでになったんですが、その後は声がかからなかったです。

 バッティングを評価されて? そうじゃなかったと思いますよ。だって、その前の秋の練習で、コーチの青田(青田昇)さんから「お前のバッティングはヘタクソだな」って嫌味を言われたことがありましたからね。

 藤本さんで一番覚えているのは、昭和42年のオフです。ブルペンばっかりで、まったく試合に使ってもらえなかったんで、藤本さん宅に直訴に行ったことがあります。次男も10月に生まれて、このままじゃ長いこと食べていけんぞと思ってね。

 土産に果物を買って、灘にあった藤本さんの家に行ったんだけど、家の前に来たら、急にドキドキしてきた。だって、僕はレギュラーでもなんでもない若造です。監督を怒らせたらクビになるかもしれん。どうやって言おうかなと思いながら玄関に入ったら、向こうが先に「ダンプ、どうした、なんかあったか」と言ってくれ、奥さんも「辻さん、あがって、あがって、なんかあったの」と言われちゃった。

 もう、どう切り出していいか分からんから、お茶を出してもらった後、じーっと黙って考えていたんですよ。そしたら、「(捕手で出場を増やしていた)和田(和田徹)が外野に行くから、ヒゲ(辻佳紀)と頑張ってくれ」と言われてびっくりした。気持ちを読まれたみたいです。

 キャッチャーとしてのターニングポイントと言えば、投手の石川緑さんに言われた言葉もありました。

 この人は中日から来たアンダースロー投手なんですが、愛知出身で僕と実家が近いこともあって、かわいがってもらった。立ち上がりで、その日の出来が分かる人で、1回からつかまることも多かったけど、1回を過ぎたら必ず5、6回は投げられる人でした。だから僕がブルペンにいたときは、「先発・石川」となったら最初から緊迫状態です。何も言われんでもピッチャーをつくっておかなきゃいけないですからね。ただ、そこを抜けたらもう大丈夫。2回以降はのんびりやっていたのを思い出します。

 この人に、「お前、これから長いことやりたいんだったら、毎年、一人いい若いピッチャーをつかまえて教育しろ」と言われたんですよ。振り返ったら、この言葉が、その後につながっていきました。

 最初つかまえたのが江夏です。

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