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張本勲コラム

東映では四番・捕手を務めた名選手。血の気が多く、永平寺で精神修行まで行った山本八郎さんは忘れられない大先輩だ【張本勲の喝!!】

 

東映の主力として活躍した山本八郎。プロ生活12年で通算113本塁打を記録した


永平寺で精神修行


 春のセンバツ大会が終わった。昨年は新型コロナ禍の影響でこの時期は開催できなかったから(夏に交流試合として開催)、今年は無事に行われてよかったと思う。観客数に制限があったようだが、選手たちは甲子園というあこがれの場所に立ってプレーできたのだから、それが一番だろう。私の母校の浪商高(現大体大浪商高)は残念ながら出場していなかったが、私も高校時代は甲子園を目指して日々練習に明け暮れていた身だから、その舞台に立てた選手たちをうらやましくも思う。

 さて、今回はその甲子園で優勝した我が母校の先輩についての話をしよう。山本八郎さんだ。1937年生まれだから、私より3歳上の先輩になる。山本さんは五番・捕手として3年春にチームを春のセンバツ優勝(1955年)へと導いた。四番を務めていたのは、のちに巨人に入団する坂崎一彦さんだった。

 私が最初に山本さんを見たのは中学生のころでテレビだった。とにかく格好よかった。当時の捕手には珍しく山本さんは足が速く、キャッチャーフライを捕るのが抜群にうまかった。打撃も素晴らしく、少し長いバットを持って左中間に大きな当たりをかっ飛ばす。テレビを見ながら「この捕手はとんでもない捕手になる」と興奮したものだ。ちなみに当時のニックネームは“ゴリ”だったと聞いている。ゴリラのゴリ。顔ではない。ごっつい体とファイター気質でそう呼ばれたようだ。

 そんな優秀な捕手をプロが放っておくはずもなく、浪商高を卒業後に東映に入団した。1年目から先発マスクをかぶり、その猛烈なファイトと好打、好リードでチームになくてはならない存在となった。

 その3年後、私も山本さんと同じように浪商高から東映に入団するわけだが、チームにあこがれの先輩がいたのは心強かったし、山本さんも強く誘ってくれたのが入団の決め手にもなった。実際に私はよく面倒を見てもらっていた。

 ただ、普段は礼儀正しい山本さんだったが、一方で血の気の多い性格で「ケンカ八郎」「ケンカはち」とも呼ばれていた。3年目の58年には判定を不服として審判に暴力行為を働いて無期限出場停止処分となっている。これはファンからの署名活動もあってすぐに解かれたが、翌59年にもホームに突っ込んだ際、クロスプレーのもつれから近鉄の捕手にまたも暴力行為で無期限出場停止処分を食らった。これは私の目の前で起きた出来事だった。前年に続いて2度目となる無期限出場停止処分はさすがに重く、山本さんは福井県にある永平寺で精神修行を行うことになった。

 少し余談ながら言っておくが、本当に強い人、度胸のある人というのは手を出さないし、ケンカもしない。それがどれだけ愚かなことか分かっているからだ。すぐにカッとなって手が出る人は気が小さい証拠。大きな声や態度で他人を威嚇(いかく)する人も同じ。弱い人間の特徴だ。

 ただ、私が入団したとき、すでに山本さんの力は衰えつつあったように思う。私も山本さんも無私寮(東映の合宿所)にいたからよく分かった。“ゴリ”と呼ばれた体つきが少し弱くなっているように見えた。おそらく自己管理ができていなかったのだと思う。いくらよい選手でも練習を怠ればさびていく。やがて水原茂さんが東映の監督となり、山本さんは近鉄へと放出されてしまった。

シャチの飼育係


 水原監督についてはこの連載で何度も書いてきたように、プロ野球の歴史の中で名将の一人だ。その水原監督と山本さんの強烈なエピソードを紹介しておきたい。

 水原監督が就任したとき、山本さんは四番・捕手としてチームに君臨していた。誰もが一目置く存在だった。しかし、水原監督は山本さんの打撃は認めていたものの、捕手には向いていないと判断し、一塁手として起用した。捕手には二番手だった安藤順三さんを使い始めたが、山本さんはこれが不服だった。一塁手としても雑なプレーが目立ち始めると、水原監督は即二軍行きを命じた。これが水原監督の名将たる所以(ゆえん)だ。大物と言えど特別扱いはせず、チームの和を乱す選手は容赦なく外す。

 二軍に落とされた山本さんは練習に出てこなくなった。「やってられるか」という気持ちだったろう。そんな状態が何日も続いたのだが、私が驚いたのはその間、水原監督は平然としていたことだった。山本さんが抜けた穴は大きかったはずだが、水原監督は何も言わなかった。

 しびれを切らしたのは山本さんのほうだった。かつて東映のエースだった米川泰夫さんに連れられて、水原監督に頭を下げた。米川さんもまた浪商高出身で、山本さんは先輩の米川さんの言うことだけはよく聞いていた。すでに引退されていたが、山本さんから相談を受け、俺が一緒についていくから監督に謝りに行こうとなったようだ。

「申し訳ありませんでした」

 涙を流しながら頭を下げる山本さんに対し、水原監督は言い放った。

「俺に謝る必要はない。謝るならチームのみんなに謝るべきだ」

 翌日、山本さんはわれわれの前で謝罪したが、あの山本さんが……と信じられない思いだった。それでも結局、水原監督とはソリが合わず、近鉄に移籍したが、近鉄では1年目(63年)に自己最多の22本塁打を放つなど、その後も主力選手として活躍した。お世話になった先輩の移籍は寂しかったが、私も水原監督の指揮官としての凄(すご)みは分かっていたので、何とも複雑な気持ちだった。これがプロの世界と思うしかなかった。

 山本さんが二軍に落とされたとき、四番の代役を務めたのが私だ。「俺の代わりに頑張っとるな」と励まされた記憶がある。普段は本当に気の優しい先輩だった。引退後にシャチの飼育係になったのは驚いたが、それもまた山本さんらしかった。2年ほど前に大阪を訪れたとき、電話で少し話したことがある。「今度、顔を見せてくださいよ」と言ったら、「おお、そうか」と笑っていた。今は会うのは難しい時期だが、機会ができたらゆっくりと当時の思い出話に花を咲かせたいものだ。私にとっては忘れられない大先輩だ。

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