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張本勲コラム

日拓の7種類のユニフォームは印象深い。あこがれだった巨人へと移籍し、初めてユニフォームを着たときの喜び【“一打無敵”のご意見番が球界を斬る 張本勲の喝!!】

 

日拓ホームが73年後期に採用した7種類のユニフォーム


七五三の衣装


 今週号がユニフォームの大特集ということなので、私も今回はユニフォームの思い出を書いてみよう。プロ野球選手にとってユニフォームは戦闘服。現役時代は袖(そで)を通すと身が引き締まったものだ。

 私は1959年(昭和34年)に東映に入団したが、そのころのユニフォームは主にフラノという素材だった。厚い生地だったから夏になると汗をよく吸い込み、ユニフォームが重くなったものだ。よその球団はどうだったか分からないが、今のようにユニフォームに経費をかける時代ではなく、どこも同じようなものだったと思う。下位球団なら、なおさらそうだった。

 ただ、61年に巨人の監督を務めていた水原茂さんが東映にやって来て、ユニフォームが新しく変わったことはよく覚えている。見栄えがよくなった。水原さんは球界きってのダンディーで知られていたから、デザインにもこだわりがあったようだ。ビジター用のユニフォームには巨人と同じフランチャイズの「TOKYO」という文字が入った。

 しかしユニフォームで思い出すのは日拓ホーム時代の7種類のユニフォームだ。東映の歴史は72年で幕を閉じ、73年から日拓ホームフライヤーズとして再出発することになった。またその年はパ・リーグが前後期制を採用した1年目。7種類のユニフォームは、その後期に登場したユニフォームだった。普通はホームとビジターの2種類だが、試合ごとにローテーションを組んで7種類のユニフォームを着替えるという、今ではとても考えられないアイデア。人気回復、話題づくりの一環だったように思う。

 面白い発想だと思うかもしれないが、選手にすれば7種類もあるから実にややこしかった。ユニフォームの色にアンダーシャツやストッキングも合わせなければならず、組み合わせなどをよく間違えた。ほかの選手のを見て気づくのである。選手もそうだが、マネジャーや用具係も大変だったと思う。七五三の衣装のような感じだった。

 このユニフォームでもう一つ覚えているのは、ズボンがパッチ(ももひき)みたいにピタッと肌にフィットしていることだった。分かりやすい言葉で言えば“ピチピチ”というやつだ。それまでズボンはどの球団もわりとフワッとしたものだったから、このパッチを採用したのは日拓ホームが初めてだったように思う。ロッテ金田正一監督からは、「お前ら、パッチを履いて野球やんのか!」と冷やかされたものだった。

 非常に珍しい7種類のユニフォームだったが、チームの後期の成績は南海と並んで3位。前期は5位に終わっていたし、久しぶりのAクラス入りでもあったから、7種類にした効果が少しはあったのかもしれない。この年、前期は田宮謙次郎監督だったが、後期からは兄(あん)ちゃんこと土橋正幸監督となった。私は兄ちゃんに頼まれてヘッドコーチ&打撃コーチを兼任していたから、その意味でも思い出深いユニフォームだ。

 このユニフォームが73年の後期だけで終わったのは、チームがまた身売りとなったからだ。74年からは日本ハムファイターズが誕生し、ユニフォームも当然のように変わったわけだが、短期間の間にこれだけコロコロと球団が変わり、ユニフォームも変わっていては選手も落ち着かず、ファンも戸惑ったに違いない。

巨人へのあこがれ


 日本ハムで2年を過ごしたあと、私は巨人へ移籍することになるのだが、初めて巨人のユニフォームを着たときの感激は今でも心に残っている。プロの選手になって東映のユニフォームを初めて着たときよりも感動したと言っていいだろう。

 私は小さいころから巨人ファンだったし、以前にも書いたが、高校時代は当時巨人の監督だった水原さんに強く誘われたのだ。当時はドラフトがない時代。中退して入団することもできたし、私もその気になっていたのだが、兄から「高校だけは卒業してほしい」と頼まれて断念した。卒業を待って巨人に入団するはずが、結局その話は立ち消えとなった。そんなこともあったから、35歳にして巨人のユニフォームを着たときに、ついにこの日が……と喜びで胸がいっぱいになったのだ。

 そうでなくとも、昔の選手たちは誰もが巨人のユニフォームにあこがれていた。あのユニフォームを着て、満員の観客の中でプレーしてみたいと夢見たものだ。それほど巨人というチームは別格の存在だった。私はそれが実現できたのだから幸せだったかもしれない。

 ユニフォームには欠かせないのが背番号だ。私は現役23年間、ずっと10番を着けていた。東映に入団するとき3つほど球団から提示され、その中から選んだのが10番だった。本当はラッキーセブンの7番、末広がりの8番が希望だったが、どちらも先輩が着けていた。空いていた10番は同じ広島の大先輩であり、ミスタータイガースと言われた大打者の藤村富美男さん(阪神)の背番号でもあったから「よし、これだ」と決めたのだ。

 その後の活躍もあって「張本=10番」が定着。背番号は選手の顔でもあり、巨人に移籍してもできれば私は10番を着けたいと願っていた。球団に相談したら「その選手が了解すれば問題ない」ということだったので、私はその選手、阿野鉱二に相談した。阿野は早大から70年のドラフト2位で巨人に入団した捕手だったが、なかなか一軍に定着できずにくすぶっていた。

「少しばかりの間、10番を貸してもらえんだろうか」

 私の申し出を阿野は快く受け入れてくれた。そんな縁もあり、阿野とは今でも付き合いがある。3球団目となるロッテは、最初から10番を用意して私を迎えてくれた。そうして23年間、私のユニフォームには10番が常にあったというわけだ。ユニフォームは何度も変わったが、10番だけは変わらなかった。

 今の選手たちのユニフォームは素材も進化し、きっと着心地も抜群のはずだ。見た目も格好いい。着ているユニフォームに誇りとチームの歴史を感じながら、素晴らしいプレーをファンに見せてもらいたいものだ。

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