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裏方が見たジャイアンツ

【新連載COLUMN】裏方が見たジャイアンツ 第1回 長嶋茂雄監督から学んだこと

 

専属ではなかったが、松井秀喜[手前]の担当をすることが多かったという筆者[中央奥]


まさに『生きる教科書』


 経歴不詳の謎の人物というわけではないが、昔からの熱心なジャイアンツファンでない限り、僕の名前は知らないかもしれない。

 1980年に中央大からドラフト外で巨人に入り、84年に引退。一軍では1勝しかできなかったピッチャーだ。引退後もジャイアンツにお世話になり、打撃投手、先乗りスコアラー、広報、法務系の仕事、ファンサービス、ファンクラブ、社会貢献、プロスカウトと幅広く仕事をさせていただき、昨年退社した。41年間だから、人生の3分の2以上になる。

 裏方の中で一番長かったのが広報の仕事だ。離れてから少し時間がたっているが、中堅以上の記者には「巨人広報・香坂」の名前は、そこそこ知られていると思う。悪名と良い評判はどちらが多かったのかな。少しはマスコミの方たちのお役に立てたんじゃないかと信じているけど(笑)。

 連載1回目は、広報時代、一番影響を受けた方の話からいこうと思う。この方は「少年・香坂」にも、大きな影響を与えた、あこがれの存在であった。

 ミスター・ジャイアンツ、巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんだ。入団1年目の監督でもあったが、翌年、藤田元司さんに交代となり、僕が広報になっていた92年秋、13年ぶりに2期目の巨人監督としてジャイアンツに戻ってこられた。

 仕事柄、いつも身近にはいたが、雲の上の人だから自分からはとても話し掛けることはできなかった。監督からも具体的な指示などは受けたことはない。いつも緊張しっぱなし。スーパースターと一ファンのような関係だった。

 監督は僕ら広報にとって『生きる教科書』だ。野球の魅力、そしてジャイアンツの魅力をいかにファンの方に伝えていけばいいのか、そのためにメディアとどのような関係でいればいいのか。監督の姿を見て勉強したことは本当にたくさんある。

 野球がたくさんの人たちを楽しませるエンターテインメントであると考え、普段から実践している方でもあった。カメラマンがどこにいて、どこでどういうことをすれば、どういう写真が撮られ、どういう映像がテレビで流れるのか。あるいは、こういう場面でこういうことを言ったら、どういう報道をされるのか……。全部計算していたと思う。

 それを最初に強く感じたのは、ある年の宮崎のキャンプ、昔の宮崎市営球場、現在のひむか球場をメーンにやっていたときだ。当時、球場はいつも満員で、球場外にも、たくさんお客さんが来ていた。

 あれは、日曜日か祝日だったと思う。いつも以上にたくさんのお客さんが来て、球場を囲むように、いわゆる“入り待ち”をしていた。僕らは、選手バスで来た選手たちを四苦八苦しながら何とか球場に入れ、あとは長嶋監督の到着を待っていた。

 監督は宿舎のホテルから専用車で球場入りする。監督の専属広報として小俣進さんが同乗していたが、僕は球場周りのお客さんを見て「きょうは混乱して危ないな」と感じていた。監督が姿を現せば、間違いなく、ファンは殺到する。いつも以上に熱気があり、長嶋さんの姿を見た途端、大騒ぎになることは予想できた。押し合いになり、特にお年寄りや小さなお子さんに何か起こっちゃ絶対にいけないと思った。

 携帯電話が普及していた時代ではなかったので、出始めたばかりの無線で小俣さんとやり取りをしたが、僕はとにかく安全な形で、誰もいないところから入ってほしいと思っていた。ただ、言葉にされていたわけではなかったが、監督は、楽しみに待っているお客さんに、自分の姿を見せたいと思っていたはずだ。

 いくら監督の希望があったとしても、この日のお客さんの数を考えれば危険極まりない。もみくちゃになるのは必至だ。僕は「正面からはちょっと無理なので、外野のレフトの出入り口を開けます。そこに車を入れ、入ってください」と小俣さんに伝え、「了解」という返事をもらった。

ああ、撮らせたんだ……


長嶋監督の周りは常に報道陣が幾重にも囲んだ


 なのに、なのに、である……。レフト方向に曲がる場所を監督車はすうっと通り過ぎちゃった。「あれ? 行っちゃったぞ」とびっくりしていたら、またすっと車が戻ってきた。よし、このままレフトに行くんだろうなと思ったら、今度は球場の正面に止まった。「ン?」と思った瞬間、車からなんと監督が出てきた!

 お客さんから大歓声が起こり、予想どおり、わっと集まってきた。僕はもう何が何だか分からず、頭がパニックになってしまった。

 球場の入り口まで10メートルくらいだっただろうか。監督が人をかき分け、かき分け入っていく姿をただ何もできず、見ているだけ。監督が無事球場入りした後、慌てて誰かファンの方がケガをしていないかチェックしたが、幸いケガ人は一人もいなかった……。唯一、監督を追い掛けているうちにお互いがぶつかり合ったTVカメラマンと新聞記者が取っ組み合いのケンカをしていたけど(笑)。

 小俣さんには「どうなっちゃったんですか」と聞いたのだが、小俣さんは「俺もどうしようもできなかったんだよ」と汗を拭きながら笑って答えた。監督は「ハイ、ゆっくり走れよー、よし、戻ってー、よし止めろ」だけだったらしい。長嶋さんに言われたら仕方ないよね、僕だって何も言えなかったと思う(笑)。

 ただ、これは翌日になってだが、小俣さんが、「おい香坂、監督はすごいな」としみじみ感心しながら言ってきた。「どうしてですか」と聞いたら、「昨日の人をかき分けての球場入り、監督はたぶん計算してたんだよ」と。

 実は僕も、前日夕方からのテレビのニュースを見て感じていたことではある。監督はニコニコ笑っていた。しかも急いでは行かず、ファンの中をゆっくり入っていった。抱きついてくるご婦人には満面の笑みで肩を抱いていた。ファンもみんな笑顔ですごく楽しそうに見えた。

 あのとき各テレビ局、新聞社のカメラマンは球場の建物の一番上の位置のカメラアングルで撮影していた。あの位置のカメラから下を撮影したらどうなるか……。日本中に巨人キャンプの盛況を伝える、最高の絵が撮れる。実際、日本全国にその映像が流れたわけである。

 そのとき、「ああ、撮らせたんだ」と悟った。監督は一度通り過ぎたとき、カメラの位置や、お客さんの様子を見てイメージし、これならと判断して球場前に戻ってきて車から降りたんだと思う。全国のファンに「ジャイアンツは、大勢のファンの方に歓迎、応援されながら、宮崎で元気にキャンプを行ってますよ〜」というメッセージを伝えるために。僕は「これが長嶋茂雄なんだ。スゴいなぁ」と思った。

 考えてみると、監督の現役時代の写真もそうでしょ。動き、表情、全部素晴らしい。もちろん、偶然のカットもあると思うけど、長嶋さんの中には、いつも「自分は見られているんだ」、「プロは見られてこそ」という思いがあったからだと思う。

 加えれば、そのファンとの橋渡し役になるメディアの大切さも分かっていた。われわれ広報担当者の意識も高く持たなくてはいけないということを、強く感じた出来事でもあった。(文・香坂英典)


PROFILEこうさか・ひでのり●1957年10月19日生まれ。埼玉県出身。川越工高から中央大に進み、東都大学リーグで79年春にノーヒットノーランを含む7勝を挙げ、優勝に貢献。全日本大学選手権でも優勝した。80年ドラフト外で巨人入団。84年限りで引退。一軍では8試合登板で1勝0敗0セーブ、防御率4.38。引退後、打撃投手、先乗りスコアラー、広報など巨人一筋で過ごし、20年退社。

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