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ダンプ辻コラム

本拠地球場の思い出。断っておきますが昭和の話です!【ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ】

 

神宮球場の黒土が好きだったという辻氏


広島のお嬢さんたち


 好評なのかどうか僕には分かりませんが、またまた球場シリーズの続きです。今回は各球団の本拠地球場にしましょうか。断っておきますが、ほぼ昭和ですよ。今の球場はよう知りませんから。

 西から行きますが、まず西鉄の平和台球場は……いきなりすみません、パ・リーグの球場だからやった試合数も少ないし、あんまり面白い話はないな。(西鉄の名捕手の)和田(和田博実)さんにキャッチャーミットを褒めてもらったくらいです。あれは球場いうより、単なるうれしかった思い出ですね。

 そうなると次は広島ですか。今のピカピカしたマツダスタジアムじゃないですよ。原爆ドームの隣にあった昔のボロい市民球場です。あそこはビジターの三塁側のロッカーがほんと狭かったんですよ。レギュラーだけは何とか入れるけど、ほかは裏に多目的の部屋があって、そこに長机と椅子を置いて使っていました。けど、そこでも全部は収まりきらんし、あとは密閉されているんで夏がひたすら暑いんです。

 それで選手の知恵というのか、通路に椅子を持ってきて代用していました。片側に網戸があるだけで風通しがよかったんで、みんなそこで着替えていました。ただ、奥に女用のトイレがあったもので、時々、おばさん、いや、お嬢さんたちと、裸になって着替えている僕らの目が合ってしまうんですよ。恥ずかしいやらうれしいやら……いや、うれしくはないか(笑)。もちろん、外も内も何事もなかったですよ。心配ご無用です。

 あとは日差しの問題です。あそこは普通の球場と逆で、夕方になると太陽がレフト側から差し込むんですよ。甲子園なら逆にライトスタンドの右サイドに落ちていくので、季節にもよりますけど、外野手以外はあまり気にならなかったんですが、広島は一塁手がサードからの送球が見えんとよくこぼしていました。ちょうど投手と一塁を結ぶラインでもあるんで、角度によっては一塁手がけん制球を捕れなかったりした。背の低い投手はまだいいらしいんですが、高い選手が上から投げると、ちょうど目に入ったそうです。あとになって、日よけのために広告をつけた木の看板やシートができましたけど、それまではみんな大変でした。

 甲子園は前に話したので飛び越えて、大阪には南海の本拠地だった大阪球場があった。ここは、とにかく急勾配のスタンドです。たまに上がって見とったけど、くらくらするくらいでした。あとオープン戦で、うちの打撃練習中、女の子が1人いて、下を向いて週刊誌かなんか読んでいた。危ないなと思っていたら本当に打球が飛んでいって、女の子の顔に当たって血がドバッと出た。あれはびっくりしたな。そうそう、江夏(江夏豊)が広島時代、あの21球で伝説をつくった球場でもあります(79年対近鉄日本シリーズ)。僕は関係ないけど、言っておかないと怒られそうだ(笑)。

 日生球場では近鉄とのオープン戦で行ったんですが、大阪よりスタンドが近くて、ヤジがよく聞こえました。河内弁のヤジで、とにかく言葉が汚いんですよ。顔が見える分、選手もカッカしてケンカになったこともよくあったそうです。あとは昭和49年(1974年)春、掛布(掛布雅之)の1年目のオープン戦かな。一緒に入った佐野(佐野仙好)とサードの定位置を競い合っていて、毎試合の前、コーチの安藤統男さんが40分のノックをしていました。試合前なのにドロドロになってましたね。それでたまたま2人のグラブが日生のベンチに並んで置いてあったことがある。佐野のグラブは汚くて使い込んであって、掛布のグラブは新しくてオイルできれいにしていた。「全然違うぞ。性格が出てるのかな」と思いました。確かこの試合で掛布は4安打を打って、先輩選手たちも「すごい選手が出てきたな」と驚いていました。

 あと大阪は藤井寺球場か。あそこは汚いだけですね。すみませんが、あまり記憶がありません。

 ナゴヤ球場もあまりないな。以前に話したキャッチャーフライのことくらいですね。ベンチに落ちそうになってフライを捕れなかった話。僕が自分で覚えているフライを捕れなかった2つのうちの1つです。

3分前の江夏がなぜか……


 神宮の三塁側ロッカーも汚かったな。今は知らんけど、昔はベンチの後ろに広い部屋があって、そこに荷物を置いていました。片側の端は通路だったですが、そこに男の小用のトイレが3つくらいあった。ドアなんてなく、段差の上にね。衛生上どうだったのかな。神宮は三塁側の外に2階建ての建物があって、そこをロッカーにしていた時代もありましたね。

 あとね、個人的な話ですけど、今の人工芝の前、内野が黒土だったときの神宮が好きだったんですよ。きれいに整地されていたんで。セカンドスローのとき、白いボールがすごく映える。いつも気分よく思い切って投げていたんで、結構、刺していた気がします。甲子園の土は赤味があったんで、そこまではっきりせんかったんでね。

 ラッキーゾーンがあった時代もありましたね。結構、球場が広かったんですよ。それを改造もせず、ラッキーゾーンをなくし、さらに狭くしたことがある。どうやったか分かりますか。ホームベースを前に持ってきたんですよ。そうそう、何を思ったかバックスクリーンに電飾つきの広告をつけたことがあったな。ご存じのように、投手が投げるボールがはっきり見えるよう黒っぽくしてる壁なのに、そこがチカチカしていた。打者が打ちづらいのはいいにしても、キャッチャーは怖くてたまらん。いつの間にかなくなってましたけどね。

 あと、これは球場の話ではありませんが、バスに乗り遅れたことがあった。宿舎から移動のバスに乗るとき、必ず最後は僕、江夏の順だったんですよ。遅刻はしません。だいたい僕が5分前で江夏が3分前。どの遠征でもそうだった。何で遅いのか? いや、そう言われてもね。昔から何をやってもぎりぎりなんですよ。でも、あるとき淡路町にあったホテルから神宮に向かうバスに乗ろうとしたら、もういなかったことがある。その日に限って江夏が少し前に乗ったんで、みんな、もう全員乗ったと思ったらしい。影が薄かったんだね(笑)。仕方ないんでタクシーを使わせてもらいました。

PROFILE
辻恭彦/つじ・やすひこ●1942年6月18日生まれ。愛知県出身。享栄商高から西濃運輸を経て62年夏阪神入団。75年大洋に移籍し、84年引退。その後、大洋、阪神、横浜のコーチを歴任した。通算974試合、418安打、44本塁打、163打点、打率.209。ダンプの愛称は同姓の捕手・辻佳紀がいたためでもある。

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