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ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ

今回は亡くなられた古葉さんの思い出です【ダンプ辻のキャッチャーはつらいよ】

 

大洋監督時代の古葉氏


今日は出てくるなよ


 昨日(11月16日)、昔からの知り合いの新聞記者から電話があって30分以上話しちゃった。亡くなった古葉(古葉竹識)さんのことです(元広島ほか監督。12日死去)。でも、きょうの新聞を見たら1文字も載ってなかったな(笑)。まあ、あれだけいろんな人がコメントしてましたから、僕の言葉なんてなくて当たり前ですけどね。

 じゃあ、ここであらためて? でも、今まで話してきたことばかりで新しいものはほとんどないけど、それでもいいですか。まあ、思い出話も供養のうちと言いますからね。

 僕が入ったころの古葉さんは、まだ広島でバリバリの現役でした。足の速い内野手で、盗塁はようしてましたが、打つほうは大したことなかったです。あとで聞いたら、あごにデッドボールを受けてから腰が引けちゃうようになったらしいですね。

 ただ、僕が一番試合に出た昭和46年(1971年)は、もう南海に行かれてたし、あまり現役時代のイメージはないんですよね。そうそう、僕が広島との試合でヒジを壊してるのを隠していたとき、こっちをじっと見ていたことがあった。僕は痛くないふりしてピッと投げてましたが、たぶんバレてたのかな。そんな気もします。でも、亡くなっちゃうと、そんな確認もできなくなりますね。聞きたいことがあれば、すぐに聞いとかないと、みんないなくなってしまいそうです。こっちも79歳のジイさんですから、自分が先にいなくなるかもしれませんが(笑)。

 えっ、頑丈そうだから大丈夫? また適当なことを言いますな(笑)。随分、ガタが来てますが、今は青汁と甘酒を飲んで頑張ってます。甘酒は最近飲み始めたんですが、頭がはっきりするような気がします。

 おっと脱線しちゃった。

 古葉さんは昭和50年(75年)に広島の監督になったけど、そのとき僕は大洋に移籍して1年目かな。広島戦で顔を合わすと、よう言われましたよ。「辻君、きょうは出てこんようにな」って。ついつい自慢話を入れちゃいますが(笑)、僕は相手チームに嫌がられるキャッチャーだった。だいぶあとだけど、関根(関根潤三)さんが大洋の監督になったとき、「おい、ほかのチームの監督が、お前がキャッチャーで出るのを嫌がってるぞ」と言われたこともあります。関根さんは僕にクビを宣告した人ですし、つかみどころのなかった人ですけど、僕を試合終盤のリリーフキャッチャーで使ってくれたり、評価はしてくれたんだと思います。

常識派の野球人


 古葉さんは、普段は穏やかですが、試合中は結構カッカしていた。いつもベンチでは体を半分隠しながら見ていたけど、時々、ベンチ裏からガタガタッてでかい音がして、「あれ、また誰か蹴っ飛ばしたかな」と思っていました(笑)。

 もしかしたらですが、僕は古葉さんを怒らせたほうかもしれません。ホームランを打ったガードナーがホームベースを踏まなかったときにアウトにしたり(81年)、現役終盤は、僕も肩が衰えていたんで、ずいぶん広島は走ってきましたが、ここぞのところでは刺しました。そのときチラッと広島ベンチを見ると、顔が赤くなってましたからね(笑)。達川(達川光男)をピックオフで刺したときも面白かったけど、この話は、ついこの間、したばかりだからやめておきましょう。

 あの人が広島の監督を辞め、大洋の監督になったのが昭和61年(86年)の秋ですが、僕は引退して二軍コーチをしていました。ほかから監督が来るときは当たり前なんですが、子飼いというのか、自分が信頼するコーチを引き連れてきて、一軍のコーチは、ほとんど古葉軍団に変わっちゃったと思います。僕もうっすらクビのあたりが寒くなっていたんですが、たぶん二軍だからお目こぼしになったんでしょう。そのまま継続となりました。

 それで伊東でやっていた秋季キャンプに古葉さんが来て、「辻君、いいピッチャーはいるか」って話し掛けてきたんです。当時、僕はキン坊、いや中山(中山裕章。86年入団のドラフト1位)が投げるときに親指がボールから浮く悪い癖を直したばかりだったんで、あいつの名前を出して一緒に見たら「おお、いいねえ」と言ってくれた。それでこっちもうれしくなって、

「いいでしょ。親指の使い方を教えるのに苦労しました。でも、こいつ集中力ないんですよ。私の考えですけど、短いイニングが面白いと思いますよ」

 と偉そうに余計なことを言いました。そのとき古葉さんは、

「分かった。でもな、辻君。若い選手は球が速いからと簡単にリリーフに回すのではなく、やっぱり先発完投を目指していかないとダメなんだ。そうしたほうが大きく育つからね。彼も先発で使っていくつもりだよ」

 と言った。僕は「すごいな。さすが大監督は考えることが違う」と思いました。ただ、その年は先発で使ったけど、翌年からあっさり抑えにしてびっくりしましたけどね。今思うとコーチからの言葉をうのみにせず、まずは自分の考えでやってから決断したんでしょう。広島と違って大洋は時間がかかる、じっくりやろうと思っていたのかもしれません。

 古葉さんがすごいなと思ったのは、翌年から大洋は沖縄でキャンプする予定だったんですが、地元の準備が間に合わないかもしれないという話になった。そのとき「分かりました。私が行ってきましょう」と言って、1日か2日で現地で知り合いの政治家さんやらの根回しをやって予定どおり間に合わせた。広島が沖縄でキャンプをやっていたこともあったようですけど、普通だったら「監督は試合に勝たせればいい。そんなのフロントがやればいい」とか言いそうなもんですけど、大したものです。

 その昭和62年のオフ、僕は阪神からコーチで来ないかと言われた。村山(村山実)さんが復帰したときで、村山さんから直接、「ダンプ、戻ってきて手伝ってくれ」と言われ、「ハイ」と返事しちゃったんですよ。そのあと一番最初に古葉さんに「阪神に行くことになりました」と言ったら、「阪神から球団に連絡してあるのか」と言われました。「まだです」と答えたら、「それはダメだよ」と。要は、こういうときは会社の上の人が球団同士できちんと筋を通さんと、あとあとわだかまりができるからということでした。

 僕の中では、古葉さんのそういう社会人としての常識みたいなものがすごく記憶に残っているんですよね。まあ、それだけデタラメな人が昔は多かったということですけど(笑)。

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