歴史は勝者のものだという。それはプロ野球も同様かもしれない。ただ我々は、そこに敗者がいて、その敗者たちの姿もまた、雄々しかったことを知っている。 それまで通算7勝の右腕
近年は投手の予告先発もあって見られなくなったが、20世紀のプロ野球には控えの選手を先発で出場させ、相手の先発メンバー次第で、レギュラー格の選手に交代させる作戦があった。交代させられる選手は“偵察メンバー”と呼ばれ、記録では出場していることになるが、“当馬”という注釈がつく。今なら「人権問題だ」などと叫ぶ人が集まってきてしまうかもしれない。
この作戦も多種多様で、登板の予定がない投手が打線に並ぶケースが多かった印象があるが、投手は先発完投が当たり前、リリーバーはスターター失格の投手の役割とされていた時代には、こうした“二流”の投手が先発で登板し、すぐに“一流”の投手にマウンドを託すこともあった。もちろん、“二流”とされた投手には屈辱的なことでもあるだろう。ただ、そんな“偵察登板”から、投手としての最大の栄誉ともいえる快挙を達成したのが、1966年、大洋の佐々木吉郎だった。
秋田商高では無名の存在だったが、社会人の日本石油でエースとなって都市対抗を制覇、橋戸賞にも選ばれて、社会人No.1投手として東映(現在の
日本ハム)との大争奪戦を経て、
三原脩監督から「逆転優勝に向けた巻き返しの秘密兵器」と期待されて、62年9月に大洋に入団した。だが、7試合に登板して勝ち星なしの4敗。63年オフにヒジ痛、「水を飲んでも太ってしまうんです」(佐々木)という体質にも苦しみ、その後も勝ち星は伸びず。
別所毅彦コーチのスパルタ指導で徐々に力をつけたが、64年には
巨人の
王貞治に長くプロ野球記録として残るシーズン55号の本塁打を献上している。
65年はゼロ勝。首脳陣の信頼も失い、背水の陣で迎えたのが66年だった。そして5月1日の
広島戦(広島市民)。偵察メンバーを多用する広島に対し、三原監督は右腕の佐々木を先発させ、広島が左打者を出してきたところで、60年に大毎で33勝を挙げてリーグ優勝の起爆剤となった左腕の
小野正一に交代させる作戦に出た。小野は、すでにブルペンで準備を開始している。このシーズンまだゼロ勝の佐々木は、別所コーチから「ヒットを1本でも打たれたら交代するぞ」と言われて、先発のマウンドへ向かった。
バットでも先制のチャンスを広げて

完全試合を達成した佐々木
この日の佐々木はスライダーが冴えていた。捕手の
伊藤勲は、「球が生きていた」と振り返っている。2回まで簡単に抑えた佐々木は、3回表一死一塁で打席に立ち、左翼の前進守備を見てバントの構えから左前打。その後、一死満塁から代打に出た
金光秀憲の犠飛で大洋が先制した。佐々木の快投は続く。6回くらいから完全試合の雰囲気が漂い始めた。8回裏二死からが最大のピンチで、代打の
寺岡孝が放った打球が中堅の前に落ちかけたが、二塁の林建造が好捕。なんとか完全試合は阻止したい広島は9回裏、代打を畳みかける。だが、佐々木は
宮川孝雄を二飛、
森永勝也を三振、そして
阿南準郎を右飛に打ち取って、プロ野球8人目、大洋2人目の完全試合を達成した。
一方のブルペンでも、プレーボールから小野が投げ続けていた。「とうとうブルペンで“完投”しちゃった。150球は投げたかな。びっくりしたよ」と小野は苦笑い。ちなみに、わずか11日後の5月12日に西鉄の
田中勉も南海戦(大阪)で完全試合。さらに、三原監督の「佐々木は2人いらない」という方針(?)で放出された
佐々木宏一郎は新天地の近鉄で70年に完全試合を達成している。
この66年、佐々木吉郎は自己最多、そしてチーム2位の8勝を挙げ、防御率3.04はチーム1位。だが、その後は不運が続く。肩、ヒジと故障が相次ぎ、68年には交通事故にも。69年までプレーを続け、通算23勝で現役を引退した。
文=犬企画マンホール 写真=BBM キャンペーンページ:
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