4年ぶりの名球会オールスター戦が沖縄で開催される。沖縄本土復帰50周年、那覇市市制100周年の記念でもある名球会ベースボールクラシック2022沖縄開催を機にあらためて沖縄と野球の、歴史や関係について掘り下げる連載コラム。第2回のテーマは「戦争と沖縄野球」だ。 1961年5月20日、沖縄で初めてプロ野球の公式戦[東映vs西鉄]が行われた場所も奥武山球場[現沖縄セルラースタジアム那覇]。沖縄野球の聖地として県民に愛されている
那覇市の奥武山公園内にそびえる「沖縄セルラースタジアム那覇」。1960年に沖縄初の本格的野球場として完成し、以降「沖縄野球の聖地」として高校野球をはじめ、数々のドラマを生んできた。2010年に改築されて現在の形となり、野球が盛んな沖縄におけるシンボル的存在となっている。
そのスタジアムの左中間スタンドをさらに抜けた先にある、
巨人がキャンプ時に投内練習で使用するサブグラウンドは「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と呼ばれている。かつて、沖縄が本土復帰した1972年に両県が結んだ「兵庫・沖縄友愛提携」を記念し、公園内に「兵庫・沖縄友愛スポーツセンター」という名のレクリエーション施設が建てられ、老朽化のため2007年に閉鎖されたが、その友愛の象徴は潰えることなく、跡地のサブグランドに受け継がれている。
両県の関係性を紡ぎ、絆へと発展したきっかけは太平洋戦争末期に遡る。米英軍を主体とする連合国軍が沖縄へと上陸し、日本で唯一住民を巻き込んだ凄惨極まりない地上戦「沖縄戦」が始まろうとする1945年1月、兵庫県出身の島田叡が沖縄県の官選知事となり赴任した。
官尊民卑の時代において戦禍を逃れようと県外へ脱出を図る役人が相次ぐ中、「沖縄の人も同胞じゃないか。同じ人間じゃないか」と、島田は苦難な時期に県民と寄り添いながら一人でも多くの命を守るべく食料の確保や疎開業務に尽力。県職員に対しても「明朗にやろう」と明るく声をかけ、混乱した県政に団結心を生んだという。
戦況が悪化の一途をたどる中、壕を転々としながら行政を続けたが、本島最南端の糸満市で消息を絶ち、未だ亡骸は見つかっていない。わずか5カ月の在任期間であったが、苦難をともにし、県民を守ろうとした知事の功績は「沖縄の島守」として敬愛され、御霊は糸満市摩文仁の「島守の塔」に祀られている。このような縁から、島田の出身地である兵庫との友愛の架け橋が結ばれていった。
友愛の象徴が沖縄野球の聖地・奥武山公園に建てられたのは、島田が野球人だったからにほかならない。研鑽を積んだ神戸二中(現在の兵庫高)、三高(現在の京都大)、東京帝大(現在の東京大)で俊足巧打の花形外野手として活躍した島田は、母校・三高の監督も歴任。自他ともに認めるフェアプレー精神を貫いた彼の名は県高野連をはじめ、中学・学童それぞれの連盟主催大会「島田杯」を通じて球児の心に刻まれている。
2015年には「島田叡氏顕彰碑」が奥武山公園に建立されたのを機に彼の足跡を偲ぶキッカケが生まれた。当時糸満高を指揮した上原忠(現・沖縄水産高監督)の発案で兵庫高と交流戦を実施し、両校はあらためて平和の尊さを共感し合った。そして島田の後輩で15年から毎年沖縄でキャンプを張る東大野球部は練習の合間に島守の塔へ赴き、ボールを供え黙祷を捧げている。「沖縄を知らずして官僚になるべからず」はチームの伝統だ。
沖縄県民の命を守るため尽力した島田の思いは野球を通じて後世へ語り継がれている。もしも沖縄へ訪れる機会があれば、彼の足跡をたどって平和に野球を楽しむことのできる喜びを再認識するとともに、世界の恒久平和を祈念してほしい。
文=仲本兼進 写真=BBM 「名球会ベースボールクラシック沖縄2022」
日時:2022年12月10日(土)13:00
会場:沖縄セルラースタジアム那覇
中継放送・配信:OTV沖縄テレビ放送、全国インターネット配信(予定)
【入場券発売】
先行発売:10月28日(金)12:00〜
一般発売:11月5日(土)10:00〜
当日券販売:12月10日(土)10:00〜
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