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「フィールドでは虎、打席ではライオン」人種の壁を打ち破ったドジャースのレジェンド

 

 現在、ドジャースの魅力が詰まった『ドジャース読本』がベースボール・マガジン社より発売中だが、ここではメジャーの人種差別の壁を取り払ったジャッキー・ロビンソンの記事を特別公開。この選手がいなければ野茂英雄をはじめ、大谷翔平山本由伸の活躍もなかった。【B.B.MOOK『ドジャース読本』より】

性格などの面でも人種差別を乗り越えられると見込まれ、ニグロ・リーグから第1号の選手になったロビンソン。彼が成功したからこそ、ほかの国の選手たちがMLBに集うのだ


MLB全球団で永久欠番


 アメリカ野球史にとって唯一無二の存在といえばジャッキー・ロビンソン。メジャー初のアメリカン・アフリカン選手として1947年にドジャースでデビューし、初めて人種の壁を打ち破った。その功績をたたえ、背番号「42」がMLB全球団で永久欠番となった唯一の選手だ。

 これまで多くのドキュメンタリーや映画で描かれてきたが、人種の壁を破るということは「差別」が当たり前に存在した時代にはあまりに険しい道のりだった。乗り物や公衆トイレなど多くの公共の場で白人用と黒人用が分けられ、MLBは「白人だけのリーグ」と呼ばれた。しかしロビンソンがデビューしたころは、社会が少しずつ変わり始めていた時期でもあった。

 当時のドジャース球団社長兼GMのブランチ・リッキーは、時代が変わることを予見し、メジャーで最初にプレーするにふさわしいニグロ・リーグの選手を探し、何人もの候補の中から白羽の矢を立てたのがロビンソンだった。

 名門UCLA大などで野球、バスケットボール、アメリカンフットボール、陸上の4競技で突出した能力を発揮。在学途中で第二次世界大戦のためアメリカ軍に入隊したときに軍人時代に人種差別と闘った経歴が、リッキー氏の目に留まった理由のひとつだったとも言われている。教養があり、人間的に信頼でき、当時の一般的な選手と違い、酒とたばこを嗜まなかった点も選ばれた大きな要因だったという。

苦難を乗り越えて


 45年11月にドジャース傘下3Aでプレーすることで正式契約。マイナーで1シーズンプレーした後、97年4月の開幕直前にメジャー昇格が決まった。しかし1年目は苦難の連続だ。ドジャースのチーム内では、南部出身の選手が中心となってロビンソン加入に反対する嘆願書が集められた。それでもリッキー氏から「どんなことがあっても、決して相手にせず受け流せ」と言われ、その言葉を守り続けた。84年にアメリカ野球殿堂入りした当時主将の内野手ピー・ウィー・リースはロビンソンを擁護した。

 その中でロビンソンは「フィールドでは虎のように、打席ではライオンのように」と例えられる華麗なプレーと好打で魅せた。盗塁王に輝き、新人王に選出された。その後も大活躍し、通算でホームスチールに成功したことは19度あり、その技は芸術的とも評された。ドジャースは55年のワールド・シリーズでヤンキースを4勝3敗で倒し世界一を達成したが、当時36歳だったロビンソンはこのシリーズで史上わずか12人しかいない本盗に成功している。

 メジャー10年間の通算成績は1382試合、1518安打、137本塁打、734打点、197盗塁、打率.311だった。現役引退後は解説者、実業家、公民権運動家としても活躍し、62年に資格取得1年目でアメリカ野球殿堂入りした。そして1972年10月24日、ロビンソンはコネチカット州の自宅で心臓発作のため53歳で死去した。

写真=Getty Images

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