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プロ野球回顧録

「最初は打てなかった」 山田久志が明かす落合博満がシンカーを攻略した日【プロ野球回顧録】

 

史上唯一となる3度の三冠王


80年代、最強バッターとして名をはせた落合


「エースの決め球を打ち崩せる打者は、そうはいない」――。そう振り返るのは、通算284勝を挙げた阪急の大エース・山田久志だ。その山田に代名詞のシンカーを攻略されたと認めさせた男が、プロ野球史上唯一となる3度の三冠王を達成した落合博満だった。

 山田が70年代を代表するエースなら、80年代の球界を席巻したのが落合だ。ロッテ時代の1982年に史上最年少で三冠王を獲得すると、85年には打率.367、52本塁打、146打点という圧倒的な数字で2度目の三冠王を達成。翌86年も打率.360、50本塁打、116打点をマークし、前人未到となる3度目の三冠王に輝いた。

 86年はシーズン終盤に若手へ出場機会を譲ったため、本塁打数こそ前年を下回ったものの、王貞治の55本塁打という当時のプロ野球記録を射程圏に捉えるペースだった。出塁率.487は、85年に規定が整備されて以降のプロ野球記録として今なお残る。前年の三冠王ということで相手投手の警戒はさらに厳しくなっていた。それでも、なぜ落合は史上唯一の3度目の三冠王を成し遂げることができたのか。その答えは、山田との数々の対戦の中に隠されている。

 82年の初三冠王以降、落合は山田との対戦で91打数31安打、10本塁打、22打点、打率.340を記録した。通算284勝を誇るサブマリンにとっても、これほど手を焼いた打者はそう多くない。

 山田は当時をこう振り返る。

「落合が台頭してきた頃には、私は駆け引きを駆使して抑える投球スタイルに変わっていた。最初はシンカーを打てなかった。読みを外してシンカーで打ち取っていたんだけど、いつの日からか、ことごとく打たれ始めた。私にも意地があるから、なんとかシンカーで抑えようと投げ込む。でも、右にも左にも自由自在に打たれてしまう。ほかの打者は空振りして体に当たったり、自打球を足に当てたりするくらいキレのあるボールだったのに、落合には通用しなかった」

 なぜシンカーを攻略されたのか――。山田には理由が分からなかった。タイミングの取り方も立ち位置も変わったようには見えない。打たれるたびに首をひねっていたという。

エースの勝負球を打ち崩す


史上最高のサブマリンとして球史に名を残す山田


 その謎が解けたのは、オールスターでチームメートになったときだった。

 落合が何気なく口にした。

「山田さん、たまに投げる、ピュッと外へ逃げるスライダーみたいなボール。あれ、いいですね」

 山田にはすぐに思い当たる球があった。試しに投げ始めていた、現在でいうカットボールのような速いカーブだった。試合では数球しか使わないボールだったが、落合はその球を鮮明に記憶していたのである。

 山田は以降、その速いカーブを織り交ぜる割合を増やし、一時は落合を抑え込むことに成功する。だが、それも長くは続かなかった。しばらくすると、その球まで攻略されてしまった。

 山田は舌を巻く。

「やっぱり落合が優れているのは、エース級のウイニングショットを打ち崩すこと。西武東尾修のスライダーもそうだし、チームメートだった今井雄太郎シュートなんて“いらっしゃい”状態だった。読みと技術、それを兼ね備えた打者はなかなかいない」

 その言葉を象徴するのが、1986年4月6日の開幕戦(川崎球場)だった。

 5点を追うロッテは8回裏二死一塁。四番・落合はカウント3ボール1ストライクからの5球目、山田が投じたシンカーを完璧に捉え、右翼席へシーズン第1号となる2ランを運んだ。

 かつてはシンカーを「すくい上げる」ように打っていたという落合。しかし、この頃には「上からつぶす」イメージで打ち返せるまでに技術を進化させていた。

 試合は阪急が勝利し、山田も完投勝利を挙げた。それでも、この一発はエース最大の武器を打ち砕いた象徴的な本塁打だった。そして、その進化を遂げた落合は、この年、誰も成し得なかった3度目の三冠王へと突き進んでいく。山田が「読みと技術を兼ね備えた打者」と最大級の賛辞を送った理由は、まさにそこにあった。

8月2日、山田久志×落合博満トークショー「野球噺」開催



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