1980年代に絶大な人気を誇った元巨人の助っ人、ウォーレン・クロマティ氏による『月刊ベースボールマガジン』の連載。巨人に在籍した7年間を通して関わった監督、コーチ、チームメート、ライバルなどとの交友録だ。第1回は84年に来日したときの監督、王貞治さんについて綴る。 「ダイジョーブ、ダイジョーブ」

王監督に支えてもらいながら巨人でプレーした
実は王さんに二度、「アメリカに帰る」と言ったことがある。最初は1年目の宮崎キャンプ10日目。練習があまりに長過ぎて、キャンプインから1週間は筋肉痛がひどかった。それで「帰る」とこぼしたら、王さんは私の部屋に来て言った。
「ダイジョーブ、ダイジョーブ」
2回目は同じく1年目の5月ごろだ。家族をアメリカに残し、異国で寂しく一人ぼっちの生活。おまけに開幕から2カ月は、一向に成績が上がらなかった。王さんは私の肩を叩き、「シーズンはまだまだ長いから、ダイジョーブ」「もうちょっとの辛抱だから」「ゆっくりでダイジョーブだよ」と励ましてくれた。そういうときの王さんは、まるで父のようだった。王さんは私の監督であり、いつしか父親的な存在になっていたのだ。
私の来日1年目は、王さんにとって巨人軍監督就任1年目の年でもあった。しかも、巨人はこの年創立50周年。“球界の盟主・巨人軍”は、何がなんでも日本一にならなければいけなかった。だから、バリバリのメジャー・リーガーだった私が呼ばれた。しかしチームは思うように勝つことができず、私もなかなか日本野球のテンポになじめなかった。やがて王さんの眉間に、しわが目立ち始めた。私も王さんも、お互いがプレッシャーの中にいることは分かっていた。
私たちは日本とアメリカのバッティング・スタイルについて、話し合った。私には通訳が付いていたけれども、王さんは極力英語を使い、私と1対1で会話した。彼は常に私をメジャー・リーガーとしてリスペクトしてくれた。彼の助言で6月に少しバッティングを変え、私は徐々に成績を上げていった。
次男の“ゴッドファーザー”
王さんは、どんなときも頼れる人だった。野球に関することはもちろん、私生活の中で困ったことが起きても、彼に相談。彼は私を自宅に招待し、食事を共にしながら家族を紹介してくれた。王さんは野球選手としてのみならず、人間として大いに尊敬できる人だった。私は次男のミドルネームに「オー」の2文字を入れ、王さんは次男の“ゴッドファーザー”になった。
85年8月、王さんのお父さんが亡くなった。その日は、
広島球場で試合が行われていた。お父さんが亡くなったのは試合中で、試合が終わるまで王さんには伝えないよう、ご家族から伝言があったそうだ。私は試合後、通訳から一報を聞き、球場に横付けされたバスに乗り込んだ。バスの席は王さんが一番前で、その後ろに私、と決まっていた。王さんは今、どれほどの悲しみに暮れていることだろう。彼がどんな表情でみんなの前に姿を現すのか、心配だった。
というのも私自身、王さんと同じ悲しい経験をしていたからだ。私が初来日した当日、祖母が亡くなった。すぐアメリカに帰ろうと思ったが、母に止められた。野球を仕事にしている以上、仕方のないことがある。悲しくて、悲しくてどうしようもなかった私を、そこで王さんが支えてくれた。王さんは今、あのときの私と同じような気持ちだろう。今度は私が彼を支えてあげたいと思った。王さんがバスに乗り込んできて“指定席”に座ったとき、私は彼の肩にそっと手を置いた。彼は無言のまま、私の手に自分の手を重ねた。王さんとの絆が、また別の形で深まったような気がした。
私は日本風にいえば、“王さんを男にする”ことが自分の使命だと思った。王さんのために、私は全力を尽くす。彼なくしては、私の日本での野球人生もありえなかった。王さんを男にすることが、私のモチベーションになった。
『月刊ベースボールマガジン』2025年7月号より 写真=BBM 『ベースボールマガジン』10月号「1976-81江本孟紀と阪神タイガース」ご購入はコチラから