1980年代に絶大な人気を誇った元巨人の助っ人、ウォーレン・クロマティ氏による『月刊ベースボールマガジン』の連載。巨人に在籍した7年間を通して関わった監督、コーチ、チームメート、ライバルなどとの交友録だ。第1回は84年に来日したときの監督、王貞治さんについて綴る。 病院から駆けつけた代打満塁弾

頭部死球を受けた翌日、満塁本塁打を放った
86年10月、チームは
広島とリーグ優勝を争っていた。そんな中、私は神宮での
ヤクルト戦で頭にデッドボールを食らった。ボールが当たった瞬間、頭の中でいろんな色がチカチカするわ、小鳥がピヨピヨ飛んで回るわ、アニメのワンシーンのように目が回った。私はすぐ担架に乗せられ、神宮からほど近い慶応病院へ担ぎ込まれた。レントゲンの結果は、「一晩、病院で安静にしていれば大丈夫」とのこと。翌日、起きるとまだ少し頭が痛かった。
球団からは「家で静養しろ」と言われていたが、優勝を左右する大事な時期だ。私が神宮に行くと、王さんは目を丸くして言った。
「あれ? クロウ、なんでここにいるの? 大丈夫?」
「ダイジョーブよ」
「ホントに?」
「ホント、ホント」
王さんには「スタメンはやめておくけれども、ベンチには入れてほしい。そして何かあったら、私を試合に出してほしい」と伝えた。王さんは「いいの?」と言いながらも、私を止めなかった。
私はユニフォームに着替え、ブルペンで試合を見守った。巨人がビハインドの状態を追い上げ、3対3の同点とした6回、満塁のチャンスが訪れた。私はブルペンからベンチの王さんを見た。すると、王さんと目が合った。王さんも同じことを考えていたのだ。
「ピンチヒッター、クロマティ」
その打席で私は代打満塁ホームランをかっ飛ばした。ベンチもスタンドも、優勝したかのような大騒ぎだった。私はベンチに戻り、王さんと抱き合った。彼の目は、ほんの少し潤んでいた。
88年、王さんは責任を取って辞任
だが、この年の優勝は結局、お預けとなった。勝利数はリーグ1位だったのに、勝率で広島を下回ったためである。そして翌87年、その雪辱を果たしてリーグ優勝を決めたとき、王さんは泣いていた。お父さんが亡くなったときも涙を見せなかった王さんが、うれし泣きにむせび、挨拶の途中で言葉を詰まらせた。
88年、私の背番号と同じ49試合目の
阪神戦でのことだ。打席に立った私の顔のあたりをボールが襲った。思わず右手でよけたら、親指に当たってしまった。その瞬間、折れたなと思った。一塁に出塁し、タイムを掛けて王さんを呼んだ。王さんは不自然に曲がって腫れ上がってきた私の指を見て、青ざめた顔で言った。
「大丈夫、大丈夫よ」
私が試合に出られなくなる現実が、とっさに受け止められなかったのだろう。
「王さん、ダイジョーブじゃないよ。マジで痛いよ!」
私の88シーズンは、そこで終わった。巨人はその年優勝を逃し、王さんは責任を取って辞任した。
あれから37年。王さんはすっかり福岡の人となってしまったけれども、私たちはずっと連絡を取り合っている。私が来日したときは、必ず一緒に食事へ出かけた。いまは私も日本に住んでいるから、いつでも王さんに会える。いまも王さんは、私の尊敬する“日本のお父さん”だ。
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