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レジェンドインタビュー

渡辺久信が受けた衝撃「今でも唯一無二」 潮崎哲也の“魔球”シンカー

 

1990年ドラフト1位で西武に入団し、魔球シンカーを操って黄金時代を支えた潮崎哲也。93年には鹿取義隆、杉山賢人と“サンフレッチェ”を結成し、晩年は先発としても優勝に貢献した。ライオンズ史に燦然と輝く右サイドハンドを、10月1日発売の『ベースボールマガジン別冊紅葉号』で特集。その中から、先輩右腕・渡辺久信氏のインタビューを特別公開する。

横から見たらカーブ


シンカーで打者をねじ伏せ、1年目から黄金時代のチームで戦力となった


――渡辺さんは潮崎さんの3歳年上です。プロ入り前から潮崎投手のことを知っていましたか?

渡辺 存在自体は知っていました。1988年にソウル五輪がありましたよね。あのときは野茂(野茂英雄)とか、石井丈ちゃん(石井丈裕)とか、智男(渡辺智男)とか、あそこらへんがみんないたときですもんね。潮崎がどこまでのピッチャーなのかは知らなかったですけど、松下電器の潮崎のことは認識していました。まだ若くて21歳だったのかな。いいピッチャーというウワサは聞いていたし、実際にオリンピックの映像で見ていたりしていたので、本当に浅く知っていました。

――実際に顔を合わせるのは90年の春季キャンプですか?

渡辺 いや、潮崎と初めて顔を合わせたのは入団する前の89年です。ドラフトが終わった後に、東京プリンスホテルでソウル五輪メンバーの集まりがあったのだと思います。僕は結婚式の打ち合わせで来ていて、そこでばったり会って挨拶されたんです。第一印象は本当に高校生みたいだなと(笑)。童顔だし、まだ体の線も細かったです。

――90年、ハワイのマウイキャンプであらためて顔を合わせるのですね。

渡辺 ピッチャーとしての印象は、投げ方はサイドスローで球も強い。何よりあいつは“魔球”シンカーを持っていました。最初にその球を見たときはびっくりしましたよ。

――具体的に教えてください。

渡辺 ブルペンでの投球練習でした。ボールが変化する軌道を初めて見て、やっぱりすごいボールだなという印象を持ちましたね。横から見たらカーブです。潮崎の場合は中指と薬指の間からボールを抜いていくので、一度ポーンと浮き上がってから落ちるっていう軌道になる。当時からサイドスローやアンダースローのピッチャーがシンカーを投げていましたけど、あれだけのシンカーは今でも唯一無二。ボールが緩く落ちていくイメージです。シンカーは高速で落ちると思っていたのですが、彼の場合はまったく違いました。

――そのシンカーが威力を発揮し、1年目の好成績につながったのですね。

渡辺 そのとおりです。やっぱり相手の打者も見たことのない軌道なので、なかなか打てる球じゃないです。

他チームなら余裕で先発ローテ


笑顔でトレーニングに励む渡辺[左]と潮崎


――当時の西武の投手陣は盤石だったと思いますが、その中で潮崎さんはどんな役割を求められていましたか?

渡辺 それは球団の編成や首脳陣が決めたことなので、僕としては何とも言えません。ただ、当時の西武は先発の頭数がそろっていました。仮に先発投手が足りないチームに入団していたら、余裕で先発ローテーションに入るほどの実力を持っていました。松下電器でも先発として長いイニングを投げていたのもうなずけます。

――先発で投げる渡辺さんにとって、潮崎さんはどのような存在でしたか?

渡辺 先発して6、7回を投げる中で、やっぱり後ろに安定感のあるピッチャーがいるのは心強いです。走者をためて交代するとき、自分よりちょっと力が落ちるような中継ぎが行くんだったら、最後まで自分で投げてやると思っちゃいますもんね(笑)。

――潮崎さんが入団した90年に鹿取義隆さんが巨人から移籍してきて、93年にはサウスポーの杉山賢人さんが加入。「サンフレッチェ(三本の矢)」と呼ばれる強力救援陣になりました。

渡辺 でも僕は完投タイプのピッチャーだったので、自分が投げたらすべて完投するつもりでしたよ。

――確かに90年まで3年連続で2ケタ完投をマークしています。

渡辺 最後までマウンドに立っていたいというタイプです。ただ、調子がいい日ばかりではないので、後ろが安定しているのは本当に大きかったです。

『ベースボールマガジン』別冊紅葉号より
取材・文=富田庸 写真=BBM


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