1990年ドラフト1位で西武に入団し、魔球シンカーを操って黄金時代を支えた潮崎哲也。93年には鹿取義隆、杉山賢人と“サンフレッチェ”を結成し、晩年は先発としても優勝に貢献した。ライオンズ史に燦然と輝く右サイドハンドを、10月1日発売の『ベースボールマガジン別冊紅葉号』で特集。その中から、先輩右腕・渡辺久信氏のインタビューを特別公開する。 先発の気持ちとリリーフの気持ち

97年以降は先発を務める機会が多かった潮崎
――潮崎さんは抑えから始まり、97年には先発も務めました。
渡辺 その年は僕が一軍であまり投げていないから、彼が先発で投げていたイメージがほとんどないんです。
――逆に渡辺さんは、救援で投げていた時期がありました。
渡辺 僕が抑えをやったのはプロ2年目の85年と4年目の87年です。2年目は抑えの
森繁和さんがケガをして投げられなくて。5月ごろに広岡(
広岡達朗)監督に呼ばれて、「今日から抑えをやれ」と言われました。そこから2カ月くらい、抑えをやったんですよ。当時の抑えはひと癖もふた癖もあるベテランがやるイメージでした。それを高卒2年目のピッチャーがやるなんてありえなかったんですけど……。
――広岡監督はなぜ渡辺さんを指名したのでしょうか?
渡辺 僕はどちらかと言えば気持ちでガンガンいくタイプ。広岡さんは抑え向きと思ったみたいで。でも僕はその年、すでに先発で4勝していたんですよ。正真正銘、先発ピッチャーとしての道を歩いていたはずだったんです。抑えで11セーブを挙げて、翌年に先発に戻りました。
――先発と救援の調整法は違いますから、苦労したのでは?
渡辺 でも、振り返って考えてみると、1年目と2年目、この2年間でピッチャーの全部のポジションをやらせてもらったんです。先発、中継ぎ、敗戦処理、セットアッパー、クローザー。この経験がすごく大きかった。3年目に先発として最多勝を獲れたのは、そのおかげです。
――具体的には何が大きかったのでしょうか?
渡辺 マウンドでの引き出しが増えました。真っさらなマウンドで上がったこともあるし、走者がたまっている場面で出ていくこともあるし、ショートイニングもあるし、
ロングイニングもある。あらゆる立場を経験させてもらったのがすごく大きかった。それが3年目に生きました。4年目に右肩をケガして、途中からは長いイニングを投げられないので、1イニング限定のクローザーも務めました。
――だからこそ先発のクローザーへの思い、クローザーの先発への思いも理解できたのですね。
渡辺 それからはもうずっと先発です。すべてのポジションを経験して、いろいろな立場の人の気持ちが分かるようになりました。勝っている試合なのか、負けている試合なのか、大差の試合なのか、接戦なのか。そういう場面を全部経験して、全部の気持ちが2年目で分かったのは大きかったです。
潮崎に感謝されたこと
――潮崎さんが入団した90年、渡辺さんは29試合に先発して16完投と、1人でマウンドを守り抜く姿が印象的です。それでも、潮崎さんに直接つなぐ場面もありました。
渡辺 潮崎には「リリーフでナベさんの後に出ていくのが一番大変でした」と言われました(苦笑)。
――それはどうしてですか?
渡辺 僕の場合、ガーンと左足を踏み込む力投型なので、地面がすごく掘れるんですよ。今はマウンドが硬くなったからほとんど掘れないんですけど、昔は柔らかかったので、思いっ切り穴ができる。僕は足が長いから歩幅も広いじゃないですか。潮崎とは踏み出す位置が違いますけど、荒れたマウンドは気になるもの。「掘れたマウンドで一番いい場所を探して投げなくちゃいけないんですよ」と彼はボヤいていました(苦笑)。
――やはりピッチャーにとって足元の状態は気になるものなのですね。
渡辺 当然そうでしょう。潮崎はしばらくすると「悪い状態のマウンドで投げるのはもう慣れました。ナベさんのおかげでどこでも投げられます」と感謝していました(笑)。
――渡辺さんが潮崎さんをリリーフとして鍛えたのですね(笑)。90年には新人ながらリーグ優勝、日本一の瞬間にマウンドに立っていたのが潮崎さんです。
渡辺 あれは面白いエピソードがあるんですよ。リーグ優勝を決めた試合、本当は二死から最後に鹿取さんが投げる予定だったんです。でも、ゲッツーで終わっちゃった。一死一、二塁で打者の二塁ゴロで併殺。潮崎が胴上げ投手になったんです(笑)。
球団に残っているのは優秀な人材だから

試合前にアップを行う渡辺[右]と潮崎
――引退後はお互い監督やコーチとしてチームを支えました。
渡辺 僕が二軍監督をやっていた07年に二軍投手コーチ、08年に一軍監督になったときには一軍投手コーチをやってもらいました。僕のことを最も理解してくれている投手コーチが小野(
小野和義)と潮崎でした。
――渡辺監督の右腕として手腕を発揮したのですね。
渡辺 意外と理論派というか、指導者としての引き出しをいろいろと持っていました。高校時代は野手もやっていて、松下電器に拾われた途端にスーパーピッチャーになっちゃった。珍しいでしょうね、ああいうケースは。鳴門高ではまったくの無名なのに、社会人の名門である松下電器に入るなんてすごいこと。本人はいろいろなコネがあったと言っていましたけど。
――潮崎さんは一時期、高校野球が終わったら草野球でもやろうと思っていたそうです。
渡辺 まだ上のレベルをイメージができていなかったのだと思います。高校から社会人に入るときなんて、本当に華奢だったと思いますよ。プロに入ったときも73キロぐらいしかなかったから。まだ体が全然出来上がってない状態でした。
――プロで戦っていく中で体が大きくなったのでしょうか?
渡辺 全然違いましたよ。相当な努力をしたはずです。
――潮崎さんは19年から編成部門を担当し、渡辺さんも13年限りで監督を退任された後はSD、GMを務めました。
渡辺 現役、監督・コーチ、フロントと、潮崎とはずっと一緒に戦ってきました。僕が球団を去った25年以降も、しょっちゅうゴルフに行っています。
――潮崎さんと過ごしたライオンズでの時間を総括してください。
渡辺 やっぱりあの強かった時代に、潮崎というピッチャーが貴重な存在であったことは確かですよね。黄金時代の投手陣の中で、やっぱり中継ぎは毎日、ブルペン待機しなければいけません。過酷な状況の中で長い間、ほとんどケガせずにやってこられたのは見事の一語に尽きます。西武が勝つために決して外せないピースが潮崎でした。
――潮崎さんは57歳になった今でも、シニアアドバイザーとして埼玉西武ライオンズを支えています。
渡辺 監督やコーチの仕事は、基本的に業務委託で1年契約なので。その中でずっと球団に残っているっていうことは、それだけの優秀な人材なんですよ。FAで残ったのは伊東(
伊東勤)さん、その次に僕、潮崎、そして今監督を務めている西口(
西口文也)です。その系譜の中に今季限りで引退する栗山(
栗山巧)が加わりました。FAで残った人たちに対して応えてくれるのが西武という球団。それが今のチーム作りにつながっていると感じます。
『ベースボールマガジン』別冊紅葉号より 取材・文=富田庸 写真=BBM 『ベースボールマガジン別冊紅葉号「潮崎哲也と西武ライオンズ」』ご購入はコチラから