1980年代に絶大な人気を誇った元巨人の助っ人、ウォーレン・クロマティ氏による『月刊ベースボールマガジン』の連載。巨人に在籍した7年間を通して関わった監督、コーチ、チームメート、ライバルなどとの交友録だ。第2回は来日4年目の1987年、中日ドラゴンズの新指揮官として目の前に現れた星野仙一監督について綴る。 相性がよかった中日投手陣

87年6月11日、中日戦で死球をぶつけた宮下に殴りかかる
1987年、開幕戦の相手は中日ドラゴンズだった。この年の中日は、星野仙一新監督が誕生、
ロッテで3度の三冠王を獲得した
落合博満が移籍加入と、新生ドラゴンズの話題でもちきりだった。
星野さんのことは、周りの人たちからいろいろ聞いていた。闘争心にあふれ、燃える男。選手指導には、手足を出すことも辞さなかった。だから中日の選手は、いつも神経質に監督の顔色をうかがっていた。
現役時代、打倒・巨人に情熱を注いでいた星野さんが監督に就任し、中日はそれまで以上に巨人へのライバル意識を燃やすようになった。僕は星野さんが監督になる前から、中日の投手陣とは相性がよかった。来日初ホームランは
小松辰雄だし、NPB通算100号も同じ小松、150号はリリーフの
陳義信から打ったほどだ。中日バッテリーに渡されたデータの僕の欄にだけ、要注意を意味する赤い旗印が付いていたそうだ。
87年6月11日の中日戦は、熊本・藤崎台球場での開催。中日の先発・
杉本正を5回からリリーフした
宮下昌己が7回のマウンドに上がった。二死二塁。四番の僕に、打順が回った。そして、あのシーンだ。宮下が、僕の背中に速球をぶつけた。中日の投手陣には、この九州遠征でさんざん
ブラッシュボールを投げられていた。またか。僕は宮下に、「帽子を取って謝れ」とジェスチャーを送った。ところが宮下はマウンドで突っ立っている。僕は頭に血がのぼって、そのままマウンドに向かって走ると、宮下の頬に右パンチをお見舞いした。
たちまち僕の周りに人垣ができ、僕は地面にねじ伏せられた。やっと立ち上がると、今度は誰かが背後から僕を羽交い締めにし、耳元で「クロウさん、ノー・ファイティング」と小さな声がする。あとで、そのちょっと甲高い声の持ち主が
桑田真澄だったと知った。
宮下とは対面して和解
向こうでは、星野さんが
王貞治さん(巨人監督)に対し、こぶしを突き出して何やら叫んでいる。王さんはいつも冷静だ。感情的に言い返さず、何かこんこんと星野さんに語っている。対する星野さんは、ワーワー怒鳴り続けていた。王さんの帽子が少し曲がっていて、なんとも気の毒だった。
ご存じの読者も多いだろうが、宮下と僕は2013年にテレビの企画で対面し、和解した。宮下はとても気のいい男で、いまは僕のベストフレンドだ。宮下いわく、あのデッドボールは星野さんの指示だったそうだ。
「クロマティにぶつけろ」
「本当にぶつけるんですか?」
「何かあったら、みんな加勢しに行くから」
「分かりました」
宮下は「でも、(僕に殴られたとき)誰も助けに来てくれなかった」と苦笑していた。
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