1980年代に絶大な人気を誇った元巨人の助っ人、ウォーレン・クロマティ氏による『月刊ベースボールマガジン』の連載。巨人に在籍した7年間を通して関わった監督、コーチ、チームメート、ライバルなどとの交友録だ。第3回は同じ外国人選手として同時期に日本でプレーしたランディ・バースについて綴る。 日本野球のストライクゾーン

83年から88年途中まで阪神でプレーしたバース
バースと僕は、1歳違い(僕が1953年、バースは54年生まれ)。日本球界でプレーした時期も、ほぼ重なっている。バースが83〜88年途中まで阪神に、僕は84〜90年まで巨人に在籍した。
実はメジャー・リーグにいたころ、僕らは1年だけ同じチームでプレーした。バースは72年のドラフトで、ミネソタ・ツインズに指名されたが、マイナー暮らしが長かった。78年にはカンザスシティ・ロイヤルズに移籍し、さらにその翌年、モントリオール・エクスポズへやってきた。一方、僕は74年にドラフト指名されてから、ずっとモントリオールでプレーしていた。バースがモントリオールに来た79年は、僕がメジャーでレギュラーを張るようになって、3シーズン目。バースはこの年、モントリオールで2試合に出場し、1度しか打席に立っていない。正直なところ、彼のことは全く覚えていなかった。
70年代のモントリオールは、まだまだ若いチームながら、レギュラーはほぼ固まっていた。バースは全力疾走ができず、守備も一塁か外野しか守れない。それでも彼を獲ったということは、フロントも初めは何かしらのプランがあったのだろう。しかしフロントの考えが変わり、バースはまた1年でチームを変わった。次のサンディエゴ・パドレスでは、より多くの出場機会を与えられたので、バースにとっては良い移籍だったと思う。
そしてバースは83年、阪神に呼ばれた。彼は一獲千金を目指し、海を渡った。1年後、僕も巨人入団が決まり、日本へやってきた。バースと仲良くなったのは、それからだ。
バースは1年目から、日本野球にアジャストした。打率.288、35本塁打は外国人選手の1年目の成績としては、上出来だろう。ちなみに僕も1年目の84年は打率.280、35本塁打だった。バースには打率でちょっと負けているけど、まあ悪くないよね?
外国人選手が日本野球に適応するためには、克服しなければならないものがたくさんある。野球でいえば、ストライクゾーン。日本のほうが、メジャーより広い。そのうえ日本とメジャーのピッチャーは、投球スタイルが全く違う。日本人ピッチャーは外国人選手に対してとことんコースを突き、これでもかとばかりにフォークボールを投げてくる。メジャーのピッチャーは速球で勝負するが、日本のピッチャーはフォークで勝負する。勝負というより、「1球目フォーク、2球目フォーク、3球目フォーク」と、フォークボール尽くしのイメージだ。だから、僕らはメジャーにいたころとはしっかり頭を切り替えなければならない。野球はまさに、メンタルのスポーツなのである。
慣れるべき問題だらけ
試合以外の面では、アメリカに比べて練習時間が長い。巨人も長かったが、阪神も長かったようだ。いや、どのチームも長かった。だから、外国人選手が集まると、必ずその話になった。いわば、お決まりの鉄板ネタである。
生活面でも日本の食事、通貨、移動、テレビ(当時はまだインターネットがなかった)、家族のこと……とにかく慣れるべき問題だらけなのだ。
日本(野球)に早く適応できるかどうかは、その選手によって全く違う。時間のかかる選手もいる。バースも僕も、幸い短い時間で済んだ。日本に来たら、日本の文化や習慣を受け入れなければならない。自分で言うのもなんだけど、いろんな意味で賢い選手のほうが、早く異国に順応できる。
面倒見のいい先輩外国人選手がいればベストだが(僕の場合は、
レジー・スミスが助けてくれた)、周囲の日本人選手の手助けも大切だ。バースも、チームメートに恵まれたのが幸いしたと思う。
掛布雅之、
真弓明信、
岡田彰布、
平田勝男……阪神の選手は、皆いい人ばかりだ。プレーについて言えば、真弓以外はあまりスピードのある選手はいなかったが、それでもバースの持つパワーとうまくマッチした。
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