茨城・取手二高、常総学院高の監督として、春1回、夏2回の甲子園優勝を果たした木内幸男氏が、11月24日に亡くなった。ここでは、常総学院高が1987年夏に全国で準優勝したときのメンバーで、教え子の仁志敏久DeNA二軍監督に、思い出を語っていただいた。 取材・構成=藤本泰祐 写真=BBM 
1987年夏の甲子園で準優勝した常総学院高のメンバー。前列右端から、仁志敏久氏、島田直也氏[現常総学院高監督]、木内幸男監督[当時]
木内さんには、最後に入院される前日にお会いし、DeNAの二軍監督になることなどを報告したのですが、ご自身も「手術はもうしない」とおっしゃっていたようで、「大丈夫かな、今月を越えられるかな」と、ある程度覚悟はしていました。
木内監督は、僕の野球人生の原点です。常総学院高での3年間、ずっとベンチで近くに座って、試合中にいろいろな話を聞かせていただいたことが、僕にとって野球を考える上でのベースになっています。目の前で起こったプレーについて、「今のはこうだからこうなったんだよ」と一つひとつ解説してくれる、みたいな感じでしたね。
残していただいた言葉があまりにも多過ぎて、とても一つには絞れませんけれども、最初に、1年生の春の県大会で、先輩が打席に入っているとき、何球目かに「次にカーブが来たらバッターの勝ち、真っすぐが来たらピッチャーの勝ち」とつぶやかれた。果たして次のボールはカーブで、バッターがヒットを打って。「お、この人はすごいな」と思ったのはよく覚えています。
木内さんの采配は、「木内マジック」とよく言われますが、実はさまざまな状況や選手の性格、心理などを考えたうえで、勝つための方法を、固定観念や、いわゆる常識的な形式の枠にとらわれずに実行しているだけなんです。固定観念や形式にとらわれている人、選手の性格などを知らない周りの人から見れば、それが「マジック」のように映る、というだけで。僕なんかは、別に「マジック」とは思わないですね。
1987年夏の東亜学園高との準決勝でサヨナラ勝ちしたときも、10回裏、ノーアウト一塁で僕にヒット・エンド・ランのサインが出て、ショートゴロの悪送球でサヨナラになりましたけど、ここも固定観念や高校野球の形式にとらわれていれば送りバントでしょう。でも、木内監督には、バントで送っても点が取れないのではないか、だったら一か八かでエンドランのほうが、最低ランナーは進められるし、何かプラスアルファが起こるかもしれない、そちらの可能性にかけたほうがいい、という冷静な計算があったのだと思います。
今年、ちょうど僕や、島田直也さん(元横浜ほか。仁志氏の2年先輩で、87年準優勝時のエース。今年から常総学院高監督に就任)が監督になるタイミングで亡くなられたというのは、何か、教え子の代に「これからはお前らがしっかりやってくれよ」とバトンを渡されたような、そんな気もします。もちろん、島田さんも僕も、木内さんの考え方がベースとなって、今があるので。そこに自分たちのプラスアルファを加えて、木内さんを超えられるように、一歩目を踏み出していこうと思います。
最後にお会いしたときは、島田さんも一緒だったんですけど、秋の関東大会でベスト4ぐらいまで進んで、センバツが有望になったときで、木内さんが「島田はすごくいいよ」と褒められて。僕はあんなに教え子を褒める木内さんは初めて見たので、「やっと、(自分たちの年代も)認められるようになったのかな」と。最後にそういう言葉を聞けたことも、心に残っています。
PROFILE にし・としひさ●1971年10月4日生まれ。茨城県出身。常総学院高時代は3年連続夏の甲子園に出場し、1年時の87年に準優勝。早大-日本生命を経てドラフト2位で96年に
巨人に入団。その年に新人王に輝く。以降も攻守走三拍子そろった選手として活躍。中でも二塁守備ではゴールデン・グラブ賞4回。2007年に横浜に移籍、10年には米独リーグでプレーし、同年6月に引退。来季からDeNA二軍監督。