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第23回 17歳の“怪童”尾崎 vs 山内らの大毎打線|「対決」で振り返るプロ野球史

 

推定159キロ、捕手がミットを止めることができない剛球


この独特の腕の角度、振りで剛球を投げ込んだ


 第22回で62年、巨人王貞治が一本足打法で打撃開眼、“青春ホームラン王”となったことを書いたが、王は元甲子園優勝投手(57年センバツ)。このころはもう、「甲子園の優勝投手は大成できない」というジンクスは常識化?していた。なるほど、戦後はそのとおりなのである。

 62年、このジンクスに挑戦する何人目かの投手が東映に入団した。61年の夏の選手権を制した浪商の2年生エース・尾崎行雄だ。“憲政の神様”と言われた大政治家と同姓同名。野球ファンはすぐにその名を覚えた。尾崎は浪商を2年で中退してプロ入りしたのだが、入学早々から阪急がマーク。2年になると各球団のスカウトだけでなく、当時の大監督たちが直接、“尾崎もうで”。尾崎としては中退してプロ入りするしかなかったのだろう、この煩わしさから解放されるために。

「ウチは貧しくて電車賃にもこと欠いて10日も学校に行けないときもあった。そんなところに5000万円の契約金なんて言われるとねえ(実際、阪急は現金5000万円をトランクに詰め込んで“これでどうですか”とやったらしい)」

 と尾崎はのちに語っている。3年前の58年に立大から巨人入りした長嶋茂雄の契約金が1800万円だったのだから、5000万円は驚くべき金額である。「卒業まであと1年待ってほしい」と言ったら「契約金つり上げか?」とかなんとか書き立てられるに決まっている。そういう時代だった。

 それにしても17歳の少年がどうしてこれほどの評価を集めたのか? それは尾崎のボールがベラボウに速かったからである。浪商時代からプロ1年目の尾崎のボールを生で見た人たちは例外なく「尾崎が一番速かった」と言う。東映で尾崎のボールを受け、62年の阪神との日本シリーズでは、土橋正幸とともにMVPとなった種茂雅之の「僕の野球人生で、捕球したとき、ボールの勢いでミットが止まらなかったのは尾崎だけ」という証言がある。スリークオーターよりやや下のサイドスローに近い独特のフォームから剛球がうなりを生じて飛んでくる。尾崎の投球の映像から、時速159キロと計算した研究者がいたそうだが、尾崎は「僕の場合、終速が速かったとは言えると思う」と語っている。速くて伸びるボールだった。

 そんな男が人気の巨人、阪神にも目をくれず、だったのは「セ・リーグは全然魅力がなかった。人気先行だから」。GTを真っ先にふるい落とす尾崎の反骨心が彼の投球を支えていた。

尾崎のボールは途中で消える!?怖いものなしの1年目


62年の初登板での大毎・山内との対決。すべてストレートで三振に切って取った


 プロ入りしてからも、すぐにこの反骨心がムクムクと頭をもたげた。巨人とのオープン戦で長嶋を3球三振に切って取り、評価はさらにグンと上昇したが、大毎の四番打者・山内和弘(のち山内一弘)が翌日の新聞で「尾崎は球が速いだけで大したことはない」と語っているのを読んだ尾崎は「山内さんを絶対三振に仕留めてやる!」とこの年の大目標を打倒山内と定めた。

 その機会は早くもやってきた。4月8日、開幕第2戦目の神宮球場。大毎との試合は3対3で延長に入った。その10回表、東映・水原茂監督は、尾崎を投入した。尾崎は二番・葛城隆雄を投ゴロ、三番・榎本喜八を三振、そして、憎っくき四番・山内を外角低めの快速球で三振。この間の15球はすべてストレートだった。その裏、二塁打の張本勲山本八郎が中前打でかえして東映はサヨナラ勝ち(2人とも浪商の先輩)。尾崎は初登板初勝利となった。

 水原監督は4試合続けてリリーフで使い、この間、3勝無敗。初めて先発した5試合目の近鉄戦はあっさり完封の12奪三振。恐るべき17歳だった。

 尾崎はこのあとも勝ち続け、7月11日には18勝(3敗)。防御率は1.11。一体何勝するのだろうかと言われた。このころになると山内は「尾崎のボールは途中で消える。打てんワイ」と完全に脱帽だった。

 しかし、尾崎はここから勝てなくなる。人差し指にマメができやすく、それがベロリとむける。さらに結膜炎にかかったり、カカトを痛めたり、ノックのボールを目に受けたりと不運、トラブルが続き、背番号と同じ19個目の白星を得るのはおよそ3カ月後の10月3日。20勝に到達したのは6日。東映の優勝はすでに9月30日に決まっていた。207回2/3を投げて20勝9敗、196奪三振、防御率2.42。これが1年目の尾崎の成績だった。64年から3年連続20勝以上。65年は27勝で最多勝に輝いているが、尾崎は「1年目が一番充実していた」と振り返る。

 それにしても、パ・リーグの打者はいいツラの皮である。9月11日でようやく18歳の少年にストレート一本ヤリで20勝させてしまったのだから。山内らの“ミサイル打線”誇る大毎が最多の6勝も献上したのは皮肉だった。

 尾崎はエースになってからとは違い、1年目は「打てるものなら打ってみろ!」の反骨心だけでぶつかっていけたのも、かえって良かったのかもしれない。尾崎は「ナメ切って投げたから、そういう結果になった」と独特の言い回しで当時を表現したが、要するに怖いものなし。これは、阪神・村山実の1年目(59年)によく似ている(18勝10敗、294奪三振、防御率1.19)。村山も「打てるものなら打ってみろ!」と向かっていった。打たれたらまた同じ球を投げる。尾崎は「考える野球なんてつまらない」とも言っているが、このあたりも村山と共通で投手という人種の特性だろう。

 尾崎は67年に肩を痛め、以後、71年まで白星から見放された。“チビ”の愛称でチームメートに親しまれたが、これはホームグラウンドの後楽園球場関係者も同様で、72年5年ぶりの勝ち星を挙げると球場支配人の吉井滋(歌人・吉井勇の長男)は「チビが勝ったぞお!」と大喜び、祝宴を開いてやった。

 誰にでも愛された尾崎は2013年夏、急逝した。肺ガンだった。まだ68歳。しかし、その速球伝説は永遠だ。

文=大内隆雄

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