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第24回(上) 藤本定義の“逆襲”vs応戦した名将たち|「対決」で振り返るプロ野球史

 

巨人に4度辞表をたたきつけた男は、ひょんなことからライバル阪神に


61年6月6日、東京の宿舎で選手に監督就任を伝え、抱負を語る藤本(ユニフォーム姿)。予定通りではあった


 読者は藤本定義という名をご記憶だろうか。戦前を扱ったころには頻繁に登場した人物で、巨人監督として1938年秋から42年まで5季連続優勝を達成、沢村栄治スタルヒンから父のように慕われた、あの藤本だ。

 藤本は42年シーズン限りで退団。その後は朝日軍(大東京・ライオンの後身)のオーナー、田村駒治郎の食客のような立場になった。藤本自身は「オレは田村さんのカバン持ち」と言っていたが。

 戦後、プロ野球復活の気運が高まると、藤本は朝日軍再スタートのために早速動き出し、以前の主力選手たちの離反(この選手たちが、のちゴールドスター=金星の中心となる)があるなど苦闘が続いたが、何とか太平=パシフィックとして再スタートにこぎつけた。

 巨人復帰というのはあり得なかった。何しろ、監督在任中、4度も辞表を提出しているのだ。巨人という組織がいかに現場を軽視していたかの証拠でもある。巨人は「球団の株を200株やる。重役にする」という甘言で引きとめようとしたが、藤本は一蹴した。

 新生・パシフィックにはスタルヒンも参加した。「巨人は、私を知らぬ間に解雇していた不実なチームだ。絶対戻らない」とスタルヒンは恩師の球団を選んだ。実は、教え子の川上哲治千葉茂も獲得できるチャンスがあったのだが、川上は、こいつに手を出せば巨人とモメるだろう、と川上が乗り気であるのにあきらめた。千葉は、父親は乗り気だったが、千葉本人が巨人に戻ることを選んだ。この2人が藤本のもとで復帰すれば、かなり状況は違っただろうが、パシフィックにはかなり貧弱な戦力しか集まらなかったから、1年目の46年は7位(最下位)、太陽となった2年目は7位。3年目は金星の監督に転じるが7位、以後大映、阪急の監督を務めるが、3位が精いっぱい。59年の阪急を最後に監督業に終止符を打った。大監督ではあったが、実質的には忘れられた存在のまま終わったのだった。

 さて、終止符を打ったハズだったのだが、ひょんなことから阪神で監督として返り咲くことになった。その前に、阪神入りの経緯を説明しておくと、阪急退団後、しばらくすると、60年から阪神の監督に就任することになったという金田正泰がやってきて「とにかくコーチをやってくれ」と熱心に頭を下げる。「巨人のライバルチームがオレを誘うとは……」と藤本は首を傾げたが、そのうち、代表の戸沢一隆も口説きにかかる。代表まで出てきては、これは本気なのだろう。受けるにしても、巨人関係者がどういう反応を示すか、それが知りたい。

 巨人監督時代のGMである市岡忠男(早大の先輩でもある)に「どんなものでしょう」と聞くと「とてもいい話だ。タイガースへ行きたまえ」と大賛成。その足でセ・リーグ会長・鈴木龍二を訪ねた。鈴木も大賛成だった。実はこの藤本阪神入り、国民新聞時代、“カミソリ龍二”と言われ、アッと驚く特ダネを連発した鈴木の練り上げた秘策だった。

セ・リーグ会長の鈴木龍二が練り上げた秘策は結果的に大成功


 59年は、鶴岡一人監督率いる南海が日本シリーズで巨人を4タテして初の日本一となった。巨人・水原茂監督の手腕に大きな疑問符が付いた年でもあった(何しろ56年から日本シリーズ4連敗!水原は結局60年にV逸で監督辞任)。また、西鉄監督だった三原脩が60年に大洋監督に就任することが決まっていた。

 鈴木は、長嶋茂雄ひとりのチームになってしまった巨人は、60年にどうなるのか。大洋は三原で少しは変わるだろうが、すぐ優勝などということはあり得ない。せめて阪神が強ければ、と思うのだが、金田監督では物足りない。ハッキリ言ってセ・リーグはピンチである。巨人OBの水原、三原の2人がそろったのだから、2人に対抗できるネームバリューも実力もある男、すなわち藤本が遊んでいるのなら、こいつを思い切って阪神にブチ込んだらどうだ。もちろん、数年後の監督という含みで、というショック療法を考え出したのだった。まさに“策士”だった。とにかく巨人OB大監督3人(1人はコーチだが)がセ・リーグにそろうことになった。

 先回りして言えば、この作戦は大成功だった。巨人は、鈴木の不安が的中してV逸となったが、三原大洋に敗れての2位だから、話題としては最高だった。あの“三原-水原”の対決が同一リーグ内で最高の形で実現したのだから。水原の後任・川上哲治監督は、61年、就任1年目に日本一。しかも、鶴岡南海を倒したのだから59年のリベンジとなった。

 さて、そのころ阪神は?この関西の名門チームだけは鈴木の思惑通りに動いてくれなかった。藤本がコーチに就任した(投手コーチ)60年、阪神は、オープン戦は13勝3敗という素晴らしいスタートぶりだったが、本番に入ると勝ったり負けたり。結局、64勝62敗4分の3位。小山正明が100勝、吉田義男が1000本安打、渡辺省三も100勝と選手にはメモリアルな年となったが、シーズンは巨人に負け過ぎたのがファンの怒りを買った。

 他球団には勝ち越すかタイだったのに、巨人には9勝16敗1分という惨敗。ルーキーの前年に18勝、巨人戦でも3勝した村山実が、この年は巨人戦0勝7敗とまったく勝てなかったのが痛かった、というより痛過ぎた。のち、この村山を立ち直らせるのが、藤本投手コーチなのだが、「阪神と藤本の接触は今回が初めてではない。長い歳月をかけての要請がやっと実現したということになる」(『阪神タイガース 昭和のあゆみ』=編集・発行阪神タイガース)のであるから藤本も責任を感じたことだろう。この阪神からの長年にわたる誘いについては藤本の自伝『覇者の謀略』(ベースボール・マガジン社)では触れられていないのだが。

 61年は4月末6勝10敗、5月末12勝21敗と負けが増えるばかりで、6月4日、13勝24敗2分。勝率.351で最下位となったところで金田監督はジ・エンド。7日から予定通りと言うべきか、藤本が指揮を執ることになった。さすがは藤本である。残り91試合を47勝43敗1分で乗り切り、チームは何とか4位。いよいよ62年は、三原、川上にひと泡吹かせることになる!

文=大内隆雄

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