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第24回(下) 藤本定義の“逆襲” vs 応戦した名将たち|「対決」で振り返るプロ野球史

 

62年はとにかく打倒巨人。ここに小山、村山を徹底投入!


64年、優勝を決めてファンの声援に応える藤本[中央]。左・村山、右・バッキー


 阪神監督時代の藤本定義には「キャンプで開幕から最終戦までの先発ローテーションを作り上げ、投手に伝えた」という“伝説”がある。まあ、伝説だろう。ペナントレースは、Vチームでも4割が敗戦。そういう戦いにおいて、全試合のローテーションをあらかじめ作り上げることにあまり意味があるとは思えない。ただ、選手に「投手のことは監督に任せれば間違いない」という安心感を与える心理的効果がある、とは言えるだろう。

 藤本の阪神監督2年目、1962年の阪神投手陣は、素晴らしい数字を残した。小山正明27勝、村山実25勝の両輪がいて、規定投球回(この年はチーム試合数×1.4とハードルが高く、阪神は186イニング)に足りない投手でも渡辺省三は10勝5敗と勝率が高い。この3人で62勝だから(阪神の勝ち星は75勝)、藤本はこの3人でローテーションを作ればよかったワケだが、これはあくまでも結果から言えることであって、藤本にそれほど勝算があったとは思えない。ちなみに藤本が途中から監督を引き受けた前年、61年の3投手の勝ち星は合計46勝だったから、62年の藤本は3本柱の起用法が確かに巧みだった。

 戦前の巨人監督時代、藤本は、“お得意さん”のチームを持つ主力投手には、とことんそのチームをやっつけさせた。例えば39年のスタルヒン。阪急戦に10勝無敗!12試合しかないカードのうちの10勝だから恐れ入る。1対0のタイトな試合が3つもあるのだから、藤本の阪急戦のスタルヒン投入は正解だった。

 62年は、とにかく前年Vの巨人をたたくことが仕事である、と藤本は腹を決めた。4月7日の1戦目から6月27日の10戦目まで、巨人戦の責任投手はすべて小山、村山だった。勝てると思ったら惜し気もなく2人を注ぎ込んだ。5月26日は小山-村山のリレーだからビックリだ。その結果は7勝2敗1分の圧勝。これで阪神ナインの巨人コンプレックスはかなり払拭されたハズだ。巨人・監督の川上哲治を「おい、テツ」と呼ぶ藤本の姿は頼もしかったことだろう。このシーズンの優勝は、この10試合で決まったと言ってもいいぐらいだ。ちなみに大洋戦の初めの10試合では、小山、村山が責任投手になったのは4試合。藤本の老かいさがよく分かる。

「われわれの間には、次第に優勝への確信が盛り上がっていったのである」─これは藤本の自伝『覇者の謀略』(ベースボール・マガジン社)の中の1行だが、ペナントレース終盤の話ではない。キャンプ中の“確信”なのだ。選手たちが「藤本さんなら」と早くから信頼を寄せていたのである。腹心の青田昇を招き打線の方は青田に任せたのだが、61年の405得点から386得点と打線は低迷。打率も2分以上下げた。それでも優勝できたのは、投手力のおかげだった(防御率2.03!)。

64年はラスト9試合を9連勝!大洋を大逆転して2度目のV


 翌63年は巨人にリベンジされたが、64年は阪神が逆リベンジ、いや、リベンジとは言えないかもしれない。巨人戦は13勝15敗と負け越したのだから。それでも勝てたのは、63年限りで東京(大毎)にトレードされた小山の代役をバッキーが務めたからである。最多勝の29勝をマーク。村山が22勝だから、また両輪がそろったワケである。さらに石川緑が10勝3敗と62年の渡辺の役割を務めた。チーム防御率は12球団トップの2.75。打線はチーム打率が6球団中5位と相変わらずだったが、小山と交換の山内一弘が阪神の打者としては久々の30本塁打超え(31本)で、打線を引っ張ったのも大きかった。

 もっとも、大洋のプレッシャーからくる自滅に助けられた面もあった。大洋は残り6試合、阪神は残り7試合となった時点で、大洋が阪神に3.5ゲーム差の首位。残り6つのうち3つ勝てば、優勝。阪神には三原脩監督率いる大洋との直接対決4試合が残っていたのがラッキーだった。焦る大洋をあざ笑うように阪神は、この4つをすべて取り、残る3試合も全勝して、逆転Vを達成した。ラスト9ゲームを9連勝。まさに“猛虎”だった。

 これでかつての部下、三原と川上に2度煮え湯を飲ませたワケである。藤本の得意や思うべし!

 ペナントレースの長丁場は得意の藤本だったが、日本シリーズとなると、どうも勝手が違った。藤本には“決戦トラウマ”とでも言うべきものがあった。プロ野球のスタートした1936年から38年まで、年度優勝決定戦というのがあった(1シーズン制となった39年から廃止)。36年は3試合制で、沢村栄治が2勝して阪神を破り優勝したが、7試合制となった37、38年は阪神に連敗。特に38年は4タテを食らう屈辱。いま、その屈辱を味わわせてくれた阪神の監督なのは、皮肉だが、62、64年ともに勝つチャンスがありながら、62年はかつての部下・水原茂が監督の東映に2勝4敗(1分)で敗れ、64年は、パ・リーグ監督時代、さんざん痛めつけられた鶴岡一人が率いる南海に3勝4敗で敗れた。64年、第6、7戦は南海・スタンカに連続完封負け。これは、38年の4タテを思わせる屈辱だった。

 62年は、2勝1分としながら、小山、村山で4連敗。村山にこだわり過ぎた面があった。対照的に水原監督は、エースの土橋正幸が先発で失敗するとサッと抑えに回して生き返らせた。このへんはシリーズ9回目という水原の経験値の高さだった。

 64年は、吉田義男が自伝『海を渡った牛若丸』(ベースボール・マガジン社)で「南海とは、毎年シーズン前に、定期戦としてオープン戦をやっている。いわば親戚のような球団(中略)なにか前から気勢が上がらなかったのを記憶している」と書くように、阪神ナインに燃えるものがなかったようだ。第7戦が行われたのは、東京オリンピック開幕の10月10日だった。

文=大内隆雄

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