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獅子のレジェンド・田淵幸一が語る 大きな財産となった西武での経験

 

移籍後の西武は練習が緩過ぎて「大丈夫か?」と思っていた田淵。根本監督時代の3年間は個人成績を残すことだけを考えていた


抜群の人心掌握術で広岡野球に染まった西武


1978年オフに西武ライオンズとなり福岡から埼玉県所沢市に移転。同オフに阪神からトレード移籍してきたのが田淵幸一だ。84年に引退するまで、チーム低迷期から黄金期になるまで西武の顔として活躍した田淵氏に、当時を振り返ってもらった。
取材・構成=椎屋博幸 写真=BBM

1978年11月、夜中に阪神ホテルに呼び出された田淵幸一。その場で西武へのトレードを言い渡された。ミスタータイガースとしてチームをけん引してきた男に対しての配慮のない時間帯での非情なトレード通達。田淵は西武での活躍を強く誓った。

 今の西武を築き上げたのは根本(根本陸夫)さんですよ。所沢移転後に3年間監督を務めた後、フロントに入りました。監督時代にも、そしてフロントとしても松沼兄弟(松沼博久松沼雅之)に伊東(伊東勤)、石毛(石毛宏典)、辻(辻発彦現監督)、工藤(工藤公康)や渡辺(渡辺久信)などの獲得に尽力しました。この根本さんのチームの土台作りがあったからこそ西武は黄金期を迎えるわけですよ。さらに根本さんには何よりハートがあった。「こういうチームにしたい」という信念が体から出ていた。それが人を引き付けるし「根本さんの下で野球をやりたい」と思わせる。そこは超一流でしたよ。

 根本監督が率いた新生・西武ですけど、79年のキャンプは下田でスタートし、その後アメリカのフロリダ州ブラデントンへ。ここで50日間くらいキャンプをして、ハワイに移動し、向こうのチームとオープン戦をやっただけ。西武球場も開幕ギリギリで開場した状況で始まったシーズンだから。勝てるわけがないですよ、こんなチーム(笑)。

 このときは「オレの野球人生は終わったかな。阪神を見返してやろうと思っていたのに、こんなチームじゃなあ」と思い悩みましたよ。特に開幕12連敗したときなどはね。その後3年間ずっと同じ思いだった。だからこそ、自分の成績を伸ばしていくだけ、という思いでプレーしていたことも事実でしたね。

 3年間の最後(1981年)で、試合中に足をケガして、それ以降なかなか試合に出られなかった。その年の最終戦だったかなあ、根本監督に呼ばれて「田淵、明日から練習せえよな」と言われたんです。なんでそんなことを言うのか不思議に思っていたら、2週間後に広岡達朗さんの監督就任が決まったのです。

 広岡さんの管理野球は厳しいとは言うけれど、私は高校時代(法政一高)、法大時代に松永怜一さんという厳しい監督に教わっているから、広岡さんのやり方に対し、何も厳しいとは思わなかったですね。管理されていると思ったこともないですし。それに根本監督の3年間が「もっと練習したほうがいいんじゃないの?」と思うくらいの自由さがありましたから(笑)。

 広岡さんの最初のミーティングは忘れられないです。「この中には高給取りがいる。その選手が走れない、守れないではダメだ!」と叱咤されましたね。私の名前は呼ばなかったけれど、東尾(東尾修)から「おっさん、あんたのことや」と茶化されましたよ。ただ、そのあともほかのヤツがいろいろ言われてね。大田(大田卓司)や東尾とミーティング後に「あんなに言われて悔しいわ、優勝しようや」と、それまでBクラスばかりのチームの連中が話し合い「胴上げしたときの4回目に手を放して、監督を落とそう」という相談までした(笑)。ただ、それでチームはまとまっていきましたよ。つまりベテランから押さえていく広岡流人心掌握術にハマったのでしょうね。

 ここからキャンプ、シーズンと広岡さんとの戦いが始まり、その力でリーグ優勝ができた。弱いチームというのは、負ける体質を持っているものなんですね。特に選手の中にそういう体質になってしまった選手がいて、新人が入ってくると遊びを教え、どんどんダメなほうに導いていく。広岡さんはそういう選手を見抜いて、勝つための弊害になるような選手をバッサリと22人くらい切った。やはり西鉄、太平洋、クラウンと弱かった時期のウミを出し切るためには、広岡さんのような指揮官じゃないとダメだった。その点も西武がその後、強くなっていた要因だと思っていますね。

広岡監督[左]が就任し管理野球へ。その当時はさまざまな反発心を持っていたが、今では連絡をよく入れる間柄だという


日本一になっても巨人を倒さないと意味なし


 82年の日本シリーズは4勝2敗で中日に勝って日本一に。うれしかったですけど、祝勝会で広岡監督が「われわれは日本一になったけれども、西武が全国区のチームになるには、巨人を倒さないといけない」という話をされた。そこで気持ちがまた引き締まりましたよ。

 工藤、伊東などはこの年一軍デビューを飾ったんですが、今、彼らと会うたびに昔話に花が咲くんですよ。当時、工藤は18歳ですよ。年齢差がすごくあるのだけど、当時は「勝つ」という目的が一緒で戦った同士たちだから、当時も今でも先輩、後輩の壁はないんですね。

 それと選手たちには遊び方も教えましたね。日本一になり、名古屋から帰ってきたときに品川から貸切バスに乗って全員で銀座に繰り出した。そのときに知らないおじさんが一緒にいたんですよ。「あなたは?」と聞くとユニフォームを洗濯する人だった。「なぜいるの?」というと「だって田淵さん、一緒に行くぞ! って言われましたよ」と、完全に忘れていました(笑)。彼らも一緒にシーズンを戦った仲間です。ほかにもそういうスタッフを呼びましたよ。

 翌年、リーグ2連覇を果たし、セ・リーグは巨人が優勝。このときに、目の前にかつて自分があこがれたユニフォームのチームがいる。その相手と最高の舞台で戦い、勝つことができた。こんな幸せなことはないし、堤(堤義明元オーナー)さんも大いに満足したのではないでしょうかね。堤さんの頭の中にも「打倒・巨人」という思いはあったでしょうから。それと同時に人を楽しませようという気持ちも強かった人です。

 西武時代は楽しい思い出ばかりですよ。石毛はどうしてもひと言多いタイプ。タク(大田)は、言葉数は少ないけど、ここというときにはバシッと言う男。東尾は後ろから背中を押して人にやらせるタイプと、いろいろいたけれど、みんな一つになって優勝を目指したいい仲間でしたね。弱い状態から強くなっていったから余計そういう結束力があった。そして、広岡、森(森祇晶、当時コーチ)さんのコンビでチーム力をつけていき、私の引退後に86年から森さんが監督になり、強い西武を完成させたわけです。

 私は西武で2度のリーグ優勝と日本一を経験することができました。もし阪神に残っていたらこの歓喜は味わえなかったし、ある程度の成績を残した、ただのプロ野球選手というだけの存在だったかもしれない。そう考えると、トレードで移籍して最高の経験をして、さらにいろいろな方に出会えたことも大きな財産になっています。あれから40年でしょ? すごいことですよ。先日、東尾と始球式で対決をしたけれど、いい思い出になりましたよ(笑)。

阪神では達成できなかった日本一と打倒・巨人。その歓喜の味は今でも忘れられない


『がんばれ!!タブチくん!!』への思い


 このころ、漫画とアニメで『がんばれ!!タブチくん!!』(1978年〜85年)というのがはやったけれど、これを考えた、いしいひさいちという作者はすごいと思いますね。当時はカッコいい野球漫画が多かったのに、違う角度から、コミカルに描いていた。ただ、このイメージを覆すには100年かかる。だから私は、このイメージに乗っかろうと思いましたね。違うことばっかりだったけどね(笑)。当時の世の中の奥様方は、野球といえば長嶋茂雄王貞治くらいしか知らない人ばかりですよ。それがこの漫画のおかげで、私のことを知ってもらえた。ただね、住んでいたマンションのある奥様が、エレベーターで会ったときの印象を私の奥さんに言ったらしく「全然違いますね。漫画とのギャップが大きいですね」と。それは当たり前ですよね(笑)。そういうエピソードもありました。

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