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日本ハム同期のルーキーたち【大島康徳の負くっか魂!!第60回】

 

ウワサのSSコンビ[右・芝草、左・島田]。僕のほうがいい男だと思いますけどね


お母さんゴメンなさい


 いやあ、東京は夏みたいな気候になってきましたね。みなさん、元気でお過ごしですか。僕ですか? もちろん、むちゃくちゃ元気です。

 この連載は、1年を1回くらいのペースでやっていたんですが、なぜか日本ハム移籍後にスピードが鈍っています。別に無理やり引き延ばしているわけではなく、当時のことがどんどん思い出されてきたからです。毎日、球団の環境面、特にメシ系にブーブー文句を言ってただけみたいな気もしていましたが、こうやっていろいろ思い出すということは、意外と楽しかったのかな……。

 今回は、僕が日本ハム入りした1988年入団のルーキーたちを紹介しましょう。87年秋のドラフト会議指名組です。

 1位がタケちゃん、武田一浩です。明大のエースですね。僕がまだドラゴンズにいて、彼が明治の大学生のころにも会っています。たぶん、明大出身の星野仙一さんとの関係だったと思いますが、ドラゴンズのトレーナーに大学のころから、お世話になっていたそうです。あれ、これって、ルール的にはまずいのかな……。まあ、30年も前だから問題ないでしょう。時間は偉大です。

 彼の学生時代、僕が東京に出てきたときに、何でそうしたのか覚えてませんが、こっちから「メシでも食わんか」と電話したことがあります。そうしたら「いまからうかがいます」と即答でした。ただ、新宿で待ち合わせだったんですが、アイツ、待てど暮らせど来ないんですよ! 頭に来て、家に電話しました。アイツは留守で、お母さんが出たので「お宅の息子、どうなってるんや? 先輩をこんなに待たせて。もう、帰るから!」と怒鳴って切りました。たぶん、お母さんは、何のことだか分からなかったでしょうね。いまさらですが、すいませんでした、お母さん。あとで聞いたら、僕が帰った後、すぐに来たみたいなんですけど、先輩を待たせたらいかんって。

 彼が、いいピッチャーだという評判は聞いていましたが、大学野球なんて見ないから、実際のピッチングはまったく分からない。初めて見たのが沖縄名護の春季キャンプです。「おお、なかなか生きのいいピッチャーだな。すぐ一軍で使えるんやないか」と思いました。

 キャンプが始まりしばらくしてから、武田が打撃練習で投げることになったんですが、誰も打席に入りたがらなかった。そりゃそうです。彼はルーキーだから、アピールしなければいけない。上背はないけど、サイド気味で力のあるボールをほうってるのは、みんな知ってるわけです。

 バッターは、特に春のキャンプで強いボールを投げるピッチャーの打席には立ちたくない。ベテランの僕らには自分なりの調整がありますし、若手はアピールしなきゃならない。球が強く、しかもコントロールもいいのか悪いのか分からん新人なんて最悪です。ドライチのかませ犬なんかなりたくないですからね。

 そうしたら、仕方がないと思ったのか、コーチが「大島、打て」と。内心、「いややな〜」ですよ。でも、いつも偉そうにしている分、逃げるわけにもいかん。しょうがないので、「じゃあ、行くよ」と打席に立ったんですが、ボールがケージから出なかったです。速過ぎ、球速違反ですよ。春の名護は、徐行運転で十分。ほんと先輩への尊敬がない男でした。ウソウソ、ぶっきらぼうで損してますが、本当は優しいヤツです。

こいつらパチプロか?


 世間的に武田以上に騒がれた新人が、ドラフト6位で指名された芝草宇宙と、ドラフト外の島田直也の高卒投手コンビ、いわゆる「SSコンビ」です。2人は、芝草が帝京高、島田が常総学院高でエースとして甲子園に出場。もうアイドル顔負けの人気者でした。ものすごかったですよ。どこから来たのか、若い女の子が毎日キャーキャー。キャンプ地に届いたバレンタインデーのチョコレートの数にもたまげました。

 ただね、もう時効だと思うから話してしまうけど、2人はマジメはマジメでしたが、決して少女漫画のヒーローみたいな品行方正ではなく、いわゆる普通の若者でした。休日、まったく娯楽のない当時の名護ですし、最初は、たぶん先輩に連れられてだったと思いますが、1年目からパチンコ屋に通っていました。一応、帽子を深くかぶって顔を隠しているんですが、バレバレです。

 それで、ここからは真偽が定かではないのですが、パチンコ屋のオーナーか店長かが、どちらかのファンだったらしく、彼らが座った台は、球が山盛りで出てくるんです。ウワサではなく、本当です。それに便乗しようと、台を変わってもらった先輩もいるくらいですから。何か仕掛けがあったのか、それとも2人が本当にパチプロ級だったのか……。

 僕ですか? 僕は、もう、その店の主みたいなもんでしたが、そんなひいきはなく、いつも実力勝負……。要は、なかなか球が出てこんかったな、あの店。いいんです。パチンコは勝ったり負けたり、それが楽しいんですから。

 ただ、SSコンビの解体は早かったですね。直也が91年オフに石川賢とのトレードで横浜に行ってしまい、実質4年でした。ドラフト外だと球団もシビアですね。

 僕は、まったく覚えていないんですが、そのとき、ひとつエピソードがあって、のちに直也にお礼を言われたことがあります。

 当時、日本ハムの二軍の施設は今の千葉・鎌ケ谷ではなく、神奈川県川崎市の多摩川べり(球場は河川敷)にあったんですが、トレードの直後、僕らがそこで練習していると、直也が近所の公園で自主トレをしていた。どうしたんだと聞くと、トレードが決まって、もう日本ハムの選手じゃないから施設が使えない、と。

「アホかい。お前はファイターズOBやないか。使え。誰が使っていても構わん。使え!」

 直也が「いいんですか?」と聞くから、「何か言われたら、俺の名前を出せ。俺が文句たれてやるから。とにかく行って、使え!」と。覚えてないけど、言いそうな言葉です。

 結局、直也は、それから移籍するまで毎日、使っていたみたいです。すごく助かったと言っていました。

 沖縄の話をずっと書いていたこともあるのか、先日、ふと思い出した言葉があります。沖縄キャンプで教えていただいた大好きな言葉、「なんくるないさ」です。

 これを笑顔で言ってもらえると、緊張していた心も、不安に押し潰されそうな心も、ふっと救われます。「命は宝だよ」という深い意味もあるそうですね。

 今回は、少し毒もありましたが、そのわりに、きれいに終わりました。

「なんくるないさ」。ほんと、優しい言葉です。

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