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野村克也が語る「プロ野球人生」

 

筆者は西武時代の80年、45歳のシーズンでユニフォームを脱いだ/写真=BBM


「名解説者になろう」と30代から準備をスタート


 シーズン終盤から各球団の引退、戦力外通告選手が続々、発表されている。自ら現役生活に幕を引いた選手、戦力外を通告されて引退を決意した選手、なおも現役続行を模索する選手……年齢も、彼らを取り巻く状況も、野球人生に対する考え方も千差万別で、先にはいくつもの道が待ち受けている。

 私は45歳で、現役を引退した。

 自分の理想よりはやや早かったが、今でも歴代年長記録の五指程度には入っているはずだ。プロの世界は、厳しい。いらなくなれば、ポイポイ捨てられるのが、この世の常である。

 一般社会でいえば“働き盛り”の30代で、多くが選手生活に終わりを告げる。現役時代は怖いものなどなくとも、現役を終わってからの人生は想像以上に長い。

 野球選手にとって引退後、どう生きるかが、人生で最も大事なポイントといえよう。ところが、だいたいの選手は現役時代、その自覚もなく過ごしてしまうものだ。

 引退後の生活について、私は30代のうちから考えていた。いつも言うように、「野村-野球=ゼロ」。引退後も、野球でメシを食う道になんとかしがみつかなければならないと思った。

 しかし当時、プロ野球の指導者といえば――特に監督の座には、大卒の人間しか就くことができなかった。三原脩水原茂鶴岡一人の『三大監督』も、みな大卒だ。私は高卒で、しかもテスト生上がり。相当なハンディである。

「それなら、俺は“名解説者”“名評論家”を目指そう」

 そう思い、優勝を逃して日本シリーズに出られなかった年は、テレビやラジオ中継の中継席で、ゲスト解説として野球を見た。キャッチャーの真後ろに陣取ってスコアをつけることも、大いに野球の勉強になった。

 東京五輪でシーズンが早く終わった1964年には、自費でメジャー・リーグのワールド・シリーズを見に行った。現役引退してから生のワールド・シリーズを見ても、仕方ない。現役時代に見ておきたいと、かねてから思っていたのだ。その千載一遇のチャンスがこの年だった。

 まさかその後、自分に監督の声が掛かるとは微塵(みじん)も考えていなかった。しかし、「名解説者になろう」と思って積み重ねてきたことが、監督になったとき、すべて役立ったのは言うまでもない。

厳しいプロ野球界で生き残るためには


 去る人がいれば、来る人もいる。この号の発売翌日は、ドラフト会議。今年は果たしてどんなドラマが生まれるのだろう。

 昨今は「巨人以外は行かない」とか「阪神以外は行かない」とか言う選手も少なくなったようだが、私に言わせれば、そういう選び方は間違っている。仮に選手側が球団を選べるなら、指導者で選ぶべきだと思う。入団時の指導者は、「プロとは何か」を初めて学ぶ相手。「プロ=野球の専門家」と言えるが、“専門家中の専門家”の下でプロ野球生活をスタートさせることができれば、これほど有意義で幸せなことはないだろう。もっとも今、そんな指導者がどれほどいるか。選手に選ばれるような指導者が1人でも多く出てくれることを願ってやまない。

 これからプロ球界の門を叩く選手たちには、セールスポイントとなるものを最低1つ以上は持っていてほしい。今後は野球が商売になる。自分の“売り”、すなわち「ここを見てくれ」「これを買ってくれ」という何かを1つ以上は備えていないと、すべて平均点では、プロでは難しい。

 いつもこの時期、あるいは春季キャンプスタートの時期、私が念押しすることがある。それは、「プロ入りは、あくまでもスタートだ」ということ。幼いころからプロ野球選手を夢見て、厳しい練習を重ね、念願のプロ入りを果たした。その瞬間、達成感にどっぷり浸ってしまう選手が多いのだ。そこは、ゴールではない。さらに過酷な、競争社会の始まりである。

 まずは目的意識、目標意識を明確に持ってほしい。君たちは、これからどうなりたいのか。何になりたいのか。人と同じことをやっていては、人並みにしかなれない。

 手前味噌な話で恐縮だが、私は若いころから、人一倍バットを振ってきた自負がある。

 プロ野球界は、基本的に1年契約。成績が悪ければ、あっさりクビになる。つまりは失業だ。野球で生きていくのは、それほど大変なこと。そう考えれば、プロ入りしたからといって安穏とせず、ワキ目も振らずに野球一筋、プロとして野球を勉強していかなければならないと分かるだろう。人にはその時期、その時期、やるべきことがあるのだ。

「野球とは」「プロとは」――監督時代、私はよく選手にこう問いかけた。「プロ意識を持つこと」は、プロで生き残るための、必須事項である。

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