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野村克也が語る「三原脩&背番号」

 

西鉄時代の三原脩監督/写真=BBM


投手交代のタイミングの遅さ


 私のコラムを読んだ読者から、こんな質問をいただいた。

「2月4日号で、野村さんは『褒めることの難しさ』について、鶴岡(鶴岡一人)監督の例を出して書いていらっしゃいました。やはり野村さんの選手時代の監督さんは、よくおっしゃるように軍隊式で、『褒めて育てる』ような方はいらっしゃらなかったのでしょうか」(S・H、36歳)

 鶴岡さんと同じ時代の監督でも、三原脩さんは『褒めて育てる』典型的な監督だったと思う。巨人時代の三原さんを私は知らないが、西鉄を指揮していたころの三原さんは、そうだった。

 自軍の選手は徹底して褒めたし、好プレーでベンチに戻るや、抱きつかんばかりの勢いで出迎えた。選手と酒席をともにすることも多かったと聞いている。

 一方、ライバルチームの主力選手はボロカスに言う。私も散々、けなされた。あるときは球場で会って挨拶をしても、フンッとばかりヨソを向かれた。あれも自軍の選手に優越感を持たせ、相手選手の冷静さを失わせようという作戦だったのだろう。

「野村の優しい顔を鬼の形相にしたら、こっちのもんだ」だったかな。そんな言われ方をしたこともあった。しかし、それを聞いて私は逆にうれしかった。「あの三原さんが、俺をマークしているんだ」と思ったためだ。

 話は逸れるが、三原さんに関して私が最も印象に残っているのは、選手交代のタイミング。特にピッチャー交代である。私がバッターボックスに立ち、「さあ、来い!」と思ったところで、おもむろにベンチを出て「タ〜イム!」。

 わざと遅く出て、バッターをじらすのだ。間違いなく、三原さんの作戦だ。あれには私も腹が立った。そりゃあ、そうだろう。バッターボックスで精神を整え、集中力を研ぎ澄まし、いざ、という瞬間、「タ〜イム!」である。一気にシュ〜ンと気が抜ける。

 その“三原流”をマネたのが、仰木彬だった。相手バッターの気合が入ったところでゆっくり、投手交代に現れる。本人がどこまで意識していたか定かでないが、ちょっと上を向き、気取った感じでベンチから出てくるところまでそっくりだった。

 どんな監督でも、自分が仕えた監督の影響を必ず受けるもの。私も無意識のうちに、鶴岡さんの影響を受けていた。「ほんじゃけえ」とか「いよいよ、いたしゅうがんすのう」とか、広島弁までうつってしまったのは、自分でもおかしかった。

“投手の背番号”にはうれしくも恥ずかしく


 もう一つの質問は、背番号にまつわるものだ。

「私たちが子どものころは、巨人・長嶋茂雄さんの背番号『3』を皆が着けたがりました。今は誰もがこぞってその選手の背番号を着けたがるような選手がいなくなりましたね。野村監督の子ども時代、皆が着けたがった背番号といえば、誰の何番だったのでしょうか?」(カトケン、60歳)

 私が子どものころのあこがれといえば、赤バットの川上哲治(巨人)さん、青バットの大下弘(セネタースほか)さんだった。

 今とは時代が違うし、わが家は母子家庭の貧乏暮らしだったから、子どものころは背番号の着いたユニフォームなんか無縁だったと思う。

 川上さんや大下さんの情報は、新聞だけが頼りだった。私は子どものころ新聞配達のアルバイトをしており、新聞だけはタダで読み放題だったのだ。

 2人の記事を読み、私はすっかりファンになってしまった。しかし、今のようにテレビ中継もないため、フォームをマネして遊ぶことはなかった。

 テレビがない時代で、ファンは選手の顔を覚えられないから、背番号で選手を覚えた。背番号は、選手にとって大切な“第二の顔”。そういう意味では、今より昔のほうが皆、背番号を大事にしたかもしれない。

 私がプロ入りしたとき、最初に与えられた背番号は『60』だった。テスト生で入った私が着けられる背番号は『60』『61』『62』しか空いていなかったのだ。早いもの勝ちで、「じゃあ僕、60番!」と手を挙げた。

『19』をもらえることになったときは、うれしかったな。自分が一気にうまくなったような気がした。あのときは、先輩キャッチャーの筒井敬三さんが高橋ユニオンズに移籍することになり、筒井さんの背番号をそのまま私が譲り受けた形だった。

 ただ『19』といえば、今もそうだがピッチャーの背番号。『19』番の野手なんか、誰もいなかったのではないか。そこはちょっと、恥ずかしかった。

 南海をクビになったとはいえ、あれだけ貢献したのだから、正直『19』は半永久欠番になるかなと思っていた。ところが私が南海を去ったすぐ翌年、山内孝徳という新人投手が『19』番をつけた。

「ふつう、“野村さんが着けていた番号なんか、とんでもない”と断るだろう」と思ったのは、私のうぬぼれだったのだろう。それほどの大選手と思ってもらえていなかったということだ。

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