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関本勇輔(履正社高) 「甲子園」で感じた司令塔の原点

 

阪神一筋で19年プレーした関本賢太郎の背中を見て育った。かつて「代打の神様」としてファンを魅了した聖地で息子も躍動。強肩強打の捕手は父同様、高卒で勝負する決意を固めた。
取材・文=小中翔太 写真=毛受亮介、BBM

2年夏の甲子園では控え捕手として全国制覇を経験。同秋からは主将としてチームをけん引し、8月の甲子園交流試合でも躍動した


 中学2年生の夏、進学先を考え始めた時期に、甲子園では超高校級の大型左腕が大きな注目を集めていた。

「寺島さん(寺島成輝ヤクルト)を見たときに、甲子園で素晴らしいピッチングをされていました。こんな好投手が在籍しているチームを、キャッチャーとして引っ張りたいと思い、履正社に行きたいと思いました」

 2年後、関本は晴れて大阪の名門・履正社高の門をたたく。しかし、胸に抱いていた希望は、すぐさま跡形もなく砕け散ってしまった。

「入学したときには、来るところを間違えたと思いました。今すぐ、学校を辞めたいとも考えていました。練習についていくのがやっと。ついていけない日もありましたし、圧倒される毎日で、最初の1年間はまったく結果が出ませんでした。体力的なキツさよりも、レベルが高いので、そこについていく精神面のキツさが多かったですね。最初はバッティングのレベルが80人いる中の80番目だったと思うので、3学年の中で1番下だったと思うんですけど、そこからどうやって這(は)い上がるか、と。人よりは、学べたかなと思います」

 やがてコツコツ続けた努力が実り、基礎体力の向上に伴い、徐々に頭角を現す。履正社高・岡田龍生監督も「1年の冬を越えて、センバツ前に野口(野口海音、大阪ガス)がケガをして、彼が出たときによく打ったんです。本塁打が出たり十分、野口の代わりができるぐらい。ディフェンス面の肩なら、関本のほうが良かったです」と評価。2年春のセンバツで控え捕手(背番号12)でベンチ入りすると、同夏には全国制覇を味わった。新チームでは四番で捕手、主将を任された。このころ、プロ野球選手になりたいという夢は高卒でのプロ入りという明確な目標に変わった。

「お父さんも高卒の2位で(天理高から)プロの世界に入っているんですけど、僕も入れるなら高校を卒業してすぐに入りたいと思っています。でないと、お父さんに負けている気がするので……。そこで、負けん気を出していこうと思っていました」

誰も席を立たない満員スタンドに興奮


 父は阪神で活躍した関本賢太郎。高卒でのプロ志望の意志を伝えた。「『小さいときから、そうなってもらうために、野球をさせてきた』と言うんです。お父さんに恩返しをしたかったので、早くプロになれるならば、目指したいなと思いました」

 幼少期は父親がプロ野球選手ということを、意識せずに過ごしてきた。「あまりプロ野球選手の息子という自覚がなく、お父さんはテレビの中で野球をしているぐらいしか思わなかったんです。ただ、野球を始めて以降は比べられることがあり、それは正直、複雑でした。でも、年を重ねるごとに聞き流すことが多くなりました。僕のやることは違うので、そういう割り切りはありました」

 それでも強烈に印象に残っているシーンがある。父の引退試合だ。2015年のレギュラーシーズン最終戦、激しいCS争いを繰り広げる広島との直接対決で、甲子園は秋風を感じさせない熱気に包まれていた。

「満員でどれぐらいの人が残るんかなと思っていたんですけど、誰一人帰らず、メチャメチャ残っている。こんなに影響力あるんや、すごいな、と。テレビの視聴者もいる。それこそ、何万人もいたわけで、こうなりたいなと思いました。『1回、マウンドから見渡してみろ!』と前から言われていたんですけど、実際に黄色と赤しかなくて、人が壁みたいになっていて、鳥肌が立ちました。歓声も響いていますし、少し焼き鳥の匂いもして(笑)。あれは人生でも、一度しかない体験。本当にカッコいいとあこがれしかなかったですね。お父さんから、神様に変わりました」

2015年10月4日、甲子園で行われた引退セレモニー当時は、中学1年生。


厳しい世界で積み重ねた19年


 正捕手として出場を決めていた今春のセンバツは、新型コロナウイルスの感染拡大の影響で中止。代替試合としての8月の甲子園交流試合では、持ち味の強肩とバットでアピールした。9月19日には昨夏の甲子園王者として、深紅の大優勝旗を返還。これで履正社高としては一区切り。

 ドラフトを前に、期待と不安だと10対0で不安のほうが大きい。

「技術面でまだまだ通用するレベルではまったくないので、評価してもらえているのか……。高校のときに騒がれていた大阪桐蔭の藤原さん(藤原恭大ロッテ)や根尾さん(根尾昂中日)も苦労され、どんな世界なんだろう、と。プロでは何年、続けられるのか――。平均8年ぐらいで、ほとんどの人が辞めていく中で、お父さんは19年プレーしてきました。どうしたら続けられるのかを、聞かないといけないと思っていますが、現役時代は食べ物には、細心の注意を払っていましたね。サプリメントも、20種類ぐらい飲んでいました」

 家では考えを押しつけるのではなく、選択肢を与えてくれた父。野球人としては、通算1272試合に出場した一流選手。身近だが、偉大な背中からたくさんのことを学んできた。

高校入学後は賢太郎氏も試合観戦に訪れ、8月に開催された甲子園交流試合(対星稜高)のスタンドで見守った


「ポジションもお父さんと異なるので、目指すところは違うんですけど、捕手は『グラウンド上の監督』と言われています。チーム全体を指揮、バッテリーでゲームをコントロールする。それを可能にできる、キャッチャーになりたいと思っています」

 司令塔として「神様」の父を超えるのが、何よりの親孝行である。

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