輝いたのは2年間だけ、といってもいいだろう。14年間の現役生活は、苦しさの連続だった。それでもマウンドに上がり続けたのは、プロ野球選手として一軍で投げたいという気持ちがあったからこそ。最後は右肩&ヒジは上がらなくなったが、それでも投げ抜いた14年間に悔いはない。
取材・構成=椎屋博幸 写真=宮原和也、BBM 2017年には金本監督の信頼を得て、勝ちパターンの中継ぎに抜てきされた
思い切り投げることができなくなった
9月25日の甲子園球場。ウエスタン公式戦
オリックス戦の9回、現役最後のマウンドに上がった
桑原謙太朗だ。最速136キロの真っすぐと120キロ台のスライダーを投げ込んで現役に幕を下ろした。全盛期のようなキレと鋭さはやはりなくなっていた。2018年に右ヒジを痛め、今季は肩にまで痛みが出ていた。その中で自ら現役に終止符を打った。
──プロ14年間、やり切った感じがありますか? それとももう少しやれたのかな、という思いとどちらでしょう。
桑原 最後のほうは思い切り投げることができなかったですが……なんとか投げ切れたので、やり切ったということになりますね。
──甲子園での最後の二軍での登板を見ていました。少し右肩が痛いのかなあ、と思いました。
桑原 あれが僕の中では精いっぱいというか1人にだけ投げたので、まだましな投球だったかな、と思います。その前の登板がまったくダメだったので、最後としては、いいほうだと理解しています。最後はヒジも肩も痛くて、でも、どちらかと言えば肩でしたね。この1年間は特にそうですね。
──今季は開幕一軍に入りましたが、そのときは右肩、ヒジは大丈夫だったのでしょうか。
桑原 そのころは、今季最後のようなきつい状態ではなかったのですが、だましながらやっていた、という表現が一番かもしれません。
──日常生活では、痛みなどは出ていたのでしょうか。
桑原 日常生活で痛いことは痛いですが、生活に支障が出るほどではないです。やはりピッチングをしているときが一番痛いし、キャッチボールのときも痛いですね。ただ、試合で投げるときは、不思議と痛みは感じないんです。その代わり腕全体に力が入らない感じになっていました。
──痛みが増していくごとに野球が楽しくなくなっていったということはありますか。
桑原 これが職業なので楽しい、ということはないですが、痛みがドンドン増していくごとに“つらさ”も増していくという感じでした。パフォーマンスのほうも上がらないですしね。本当は続けたいという気持ちはあったんですが、二軍でも投げられずに終わりましたからね。
──8月28日に行われた独立リーグ・徳島との試合で投げて、引退を決意したとうかがっています。
桑原 実は、その前から引退を決めていました。肩が痛くて投げられないと二軍の安藤(
安藤優也投手コーチ)さんに伝えたんですよね。そこで最後に独立リーグとの試合で投げるか、という打診をもらって、投げさせていただいたという感じです。だから、あそこで引退を決めたというわけではなかったですね。でも、投げた結果が散々。そのときに安藤さんから「今後どうする?」と聞かれて、もう大丈夫ですという話をしました。
──安藤コーチには、早い段階で肩の状態について話していたんですね。
桑原 投げるチャンスがあれば、登板させてください、という話はしていました。でも、試合中に投げる準備をしながら、点差が縮まってきたときなどはチームに迷惑が掛かる、投げたら試合をつぶしてしまうと思っていたので「今日は投げなくてもいいですので、若い子にチャンスを与えてください」という断り方もしていました。
──そういう考えになったのは、今季開幕後、登録抹消されてからですか。
桑原 一軍にいたときは、何とか投げようという気持ちで頑張っていました。ただ一軍で投げているときに痛みが出てきだして……抹消されてからは、少し気持ちが落ちたかもしれません。最初はヒジを痛めていましたが、そこから肩を痛め、今年はずっと肩が痛かった。多分ヒジをかばっていくうちに肩に来たのだと思います。
──ヒジさえ治れば、肩には負担がかからないと思っていた。
桑原 どちらも同じ頻度でのケアはしていました。でも、どうしてもかばってしまっていたんだろうな、と。まあ、昨年ヒジを痛めていた時点で、球団は契約してくれないだろうな、とも思っていたんです。それでも契約をしてもらえたので、今年は何とかして……という気持ちでいました。
16年オフに残してもらえた
17年は67試合に登板し、19試合連続無失点を記録するなど、無双状態の時期もあった
16年までは、目立つような活躍はしておらず3球団を渡り歩いた。転機はそのオフ。戦力外の話も進んでいたが、当時の
金本知憲監督と二軍の
高橋建投手コーチなどが桑原を残すようにという要請を球団にした。そして17年にチャンスをつかみ最優秀中継ぎのタイトルを獲得。ようやく自分の居場所を見つけた。
──14年前、プロ1年目(08年)は、この世界でやっていけると思っていたのでしょうか。
桑原 本当にやっていけるんだろうか?という思いのほうが強かったですね。それでも1年目は(30試合3勝6敗)たくさん投げさせていただいたので、やっていけるのかな、とは思っていました。それでズルズルと横浜時代を過ごし、オリックスへ行って周りの投手がすご過ぎて「これはダメだわ」と。しかも一軍に上がるとすぐ打たれてしまって……。
ドラフト3位で横浜から指名され入団。その後オリックス、阪神と渡り歩いた[後列左から3番目]
──15年に阪神に移籍し、16年は登板機会がありませんでした。翌17年の春季キャンプでは、ものすごいキレのスライダーを投げていた記憶があります。
桑原 16年が終わったときに、金本さんや高橋さんのプッシュがあって、残してもらったと聞いています。そこに久保(
久保康生)さん(当時コーチ)も絡んでいたとも聞いていますが、どれが本当か分かりませんけど、残してもらいました。
──16年はどこか故障していたとか?
桑原 どこにも故障がなく、痛いところもなく、でも二軍の試合でも投げさせてもらえないという状況が8月まで続いていました。僕の中では「そういうときがやってきたのかな」と思っていたので、悔しさなどはさほど大きくなかったです。
──そのあとの17年のオープン戦で結果を残して、大活躍につながったんですね。
桑原 あのときは岩崎(
岩崎優)のケガで一軍に呼ばれてという流れでしたね。開幕戦で登板して、新井(
新井貴浩)さん(
広島)にサヨナラを打たれました。このとき、15年の開幕すぐに打たれて二軍行きになったときのことを思い出して、覚悟しました。
──でも、翌日の試合で同じ新井さんのときにマウンドに上がりました。
桑原 頑張っていこう、という感じで金本さんに背中を押してもらったのかな、とは思います。でもあのときはとにかく「抑えたい!」という一心で、無心で投げていたと思いますね。
──そのあとの4月5日の
ヤクルト戦(京セラドーム)でも無死一、二塁のピンチをしのぎました。
桑原 あのときは犠打で一死二、三塁になり、そのあとの2人を抑えて無失点でイニングが終わったと思います。そこから、何とかやっていけるのかな、と思うようになりました。
阪神で初のお立ち台は17年4月30日の中日戦[甲子園]。満面の笑みで照れくさそうに話したが、このシーズンに欠かせない存在になりつつあった
──5月からは16試合連続無失点、19試合連続無失点という活躍を見せていきます。
桑原 当時は抑えていたイメージはありました。あのときは打者を追い込んだら大丈夫という感覚はありましたね。この年、何が変わったかと言われても……何も変わっていなくて、前年まで投げていた球種と何の変化もありません。自信がついたのはコントロールがよくなったことだけですね。そこはゾーンで勝負できた感じはありますね。
──中継ぎの経験があっても、チームが違えば勝手も違いますが、その辺りはすぐになじんだのでしょうか。
桑原 中継ぎの投手は、最初、先輩やコーチから、こういう場面で行くと思うよ、と教えてもらい、自分の位置が分かってくると、だんだん自分が投げる場面が理解できるようになります。そこで、試合展開を見ながら、どういう打者と対戦しそうか、何回に投げそうかという予想ができるようになります。そこを逆算して、調整を行っていました。
──18年も62試合に登板し、32ホールドと素晴らしい投球を見せていました。
桑原 その18年の途中からヒジが痛くなっていたんですよね。頑張りたいなあ、という思いだけで投げていました。オフも治療をしながら、いつもどおりのトレーニングをしていました。でも(19年の)キャンプで投げて、これはダメだな、と。結局、18年に痛めながら投げていたことが大きく響いたのかな、と思います。
──当時の状況で「痛い」と言って治療に専念する考え方は選択肢としてあったのですか。
桑原 いやあ、当時の僕にはそういう考えはなかったです。ただ今でも専念しておけばよかった、という後悔などはまったくないですね。投げられるうちは、投げておかないとダメだと思っていましたから。それにそこで頑張って投げていたからこそ、今季まで契約してもらったと思っています。
──あの変化球は魔球でした。もう一度見たいなと思っていました。
桑原 僕自身も肩ヒジを痛めながら、追い求めていたのは、そこでしたからね。それでも戻れないだろうな、という思いもありましたけど、最後までそこを追いかけたという……。ヒジをもう一度、あのときの状態に、という一心で過ごしていましたね。一軍で投げてこそ、なのでプロ野球選手は。
──特に阪神という人気球団で、常に満員の中で投げて、抑えたときの爽快感というものは特別なのかな、とも思います。
桑原 それはなかったんですよ。どちらかというと「ああ、抑えてよかった」という安堵感のほうが大きかった。その2年間は充実感がありましたし、プロ野球の世界で仕事をしているな、という実感はありました。
──今後、どういう活動をしていくというようなプランは持っていますか。
桑原 まったく何もないです。これから探していきます。まあ指導者というガラでもないですから、僕は(笑)。阪神を応援しながら次のことを考えていきます。そろそろ就活をしないといけないですねえ(笑)。
CLOSE-UP 現役時代支えになった言葉
今季は開幕から一軍に入ったが、ヒジをかばったことで肩まで痛みが出てきて思うような投球ができなくなっていった
「継」
この世界、努力しても報われないことのほうが多いですよね。でも、努力しないと結果は出ないです。その連続だとは思うので「継続」としての「継」が、僕の中にある言葉ですね。特に17、18年に活躍できたことは、それまでに継続して、やってきたことが報われたのかな、と思いましたからね。まあ、中継ぎの「継」でもありますけど、これはたまたまです。
記録メモ RECORDS&TITLES
[背番号]
38(2008年-10年)
13(11年-14年)
64(15年-21年)
■初登板=2008.4.6 vs.広島(広島市民)
■初先発=2008.6.4 vs.
西武(西武ドーム)
■初勝利=2008.7.9 vs.ヤクルト(神宮)
■初先発勝利、初完投、初完封=2008.8.16 vs.横浜(京セラドーム)
■初ホールド=2008.5.26 vs.オリックス(甲子園)
[主なタイトル]
■最優秀中継ぎ 1回(2017年)
PROFILE くわはら・けんたろう●1985年10月29日生まれ。三重県出身。津田学園高から奈良産大を経て2008年ドラフト3位で横浜に入団。11年にオリックスへ、15年には阪神へとトレード移籍した。16年には1試合も一軍昇格はなし。しかし、17年のオープン戦で結果を残すと開幕一軍入りをし、勝ちパターンの6、7回を任されるようになった。分かっていても打てないカットボールでピンチを凌ぐピッチングは圧巻。43HPで
マテオとともに最優秀中継ぎに。しかし、19年から右肩&ヒジのコンディションが上がらず、今季限りで引退を決意し、14年の現役生活に終止符を打った。通算成績242試合登板、15勝13敗0セーブ78ホールド、防御率3.61。