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【インタビュー】佐々木麟太郎(花巻東高・内野手)18歳の決断 高校通算140本塁打『米国大学進学』の真意「野球だけではない、将来的な道を紐づけていきたい」

 

高校3年間、汗を流した花巻東高グラウンドでポーズを取る。すでに降雪もあり、屋外での練習には制限が出ているという[写真=BBM]


仮にプロ志望届を提出していれば、10月26日のNPBドラフトで、指名を検討している球団があったと聞く。日本の大学進学、NPB、アメリカの大学進学、MLBという4つの選択肢から絞ったのは、アメリカ留学だった。強調したのは、MLB志望が前提ではないこと。あくまでも、長い人生を見据えた上での選択であった。
取材・構成=岡本朋祐

 報道各社の合同取材を約40分受けた。質問者の目を見て、真摯に答える姿は、父である花巻東高・佐々木洋監督の教育の賜物だ。その後は、各社取材を約20分。言葉の端々には力があり、18歳とは思えない芯の強さ。必ず、成功すると確信した。

──花巻東高への入学の際、父である佐々木洋監督とは「親子の縁を切る」と、強い覚悟を示していました。最後の公式戦となった10月の鹿児島国体を終えて、「父子の関係」に戻ったのでしょうか。

佐々木 全く変わっていないです。国体後も、2年生以下の練習に参加しています。高校卒業後、野球を続けない部員も一緒です。これが、花巻東の伝統ですし、良さだと思います。来年3月の卒業式まで野球部の寮で生活しているので、監督と選手の関係のままです。今後の進路についても、監督さんと一緒になって決めています。当初からそういう気持ちで入学していますので、違和感はないです。

鹿児島国体1回戦[対履正社高]で敗退[3打数無安打、1四球]。高校の最後の公式戦後、プロ志望届を提出せず、米国留学を明言した[写真=上野弘明]


──アメリカ留学を選択した理由は?

佐々木 自分自身の生き方としては、野球だけできる人間を目指しているのではなく、野球もできる人間になりたい。人生、長い目で見たときに、まだまだ勉強しないといけないこと、学びたいことがありました。両立できるのが、今の自分の選択なのでは、と思っています。アメリカでは野球のキャリアと、自分の人生としてのキャリアをどうしていくか、プランニングしていきたいと考えています。

──鹿児島国体1回戦敗退後、進路表明した10月10日、佐々木監督は「平均寿命、プロ野球の選手寿命も伸びていますので、もう少し教養をつけながら、次のステージを目指してもいいのでは。野球だけできる選手ではなくて、野球もできる人生を送ってほしい」と発言しました。

佐々木 父であり、監督の教えであり、自分自身の名前(麟太郎=日本人初の太平洋横断をした勝海舟の幼年期の名前に由来し「誰も成し遂げていない新たな道を切り開いてほしい」との願いが込められている)もそうですけど、そういう人間になりたいと思っています。高校入学以降、勉強して知識をつけていく中で、自分としての生き方、考え方から導き出しており、そこに関してはブレていない。

──プロ志望届提出を回避した理由は。

佐々木 野球選手としても、プロに行けるレベルの選手ではない。今の段階では、アメリカの大学で選手として、どれだけ活躍できるか……。メジャー・リーグは未知の世界。まず、大学で結果を残せるように頑張っていく段階です。先のことはまだ、考え切れていないです。

──NPBも高い評価でしたが……。

佐々木 夏の大会では結果が出なかったんですけど、監督さんのほうから「評価は変わらない」と、ずっと熱心に来てくださっている球団があると聞いていたので、そこに関しては感謝しています。日本国内の大学さんからもお声をかけていただいたんですけど、一つひとつ見させてもらって、アメリカの大学でやる意志になりました。野球選手、人間としても未熟なので、広い世界で学んでいきたい。トータルに考えて、決断しました。

──渡米後、NPBドラフトで指名される可能性もあるかと思いますが……。その後の進路については考えていますか。

佐々木 そこまで考えていない。もちろん、そういう選択肢がある話は聞いていますが、大学を決めることしか考えていない。その先のことは、今の段階では読めないこと。大学野球生活で、どれだけ結果を出していくかにフォーカスしたい。

──あくまでも仮定の話ですが、アメリカの大学で活躍すれば、日米大学選手権で「USA」のユニフォームを着て、侍ジャパンと対戦する可能性もあります。1978年にはアメリカ留学中だった江川卓氏(法大卒)がアメリカ代表の練習生として参加し、日本とのエキシビションで登板した例もあります。ちなみに25年の日米大学選手権は、日本開催です。

佐々木 初めて知りました。そういうチャンスがあれば頑張りたいですが、結果を出さないと、どうこうではありません。

先輩2人とは異なるルート


──今回のアメリカ留学と、メジャー・リーグとの関連性はありますでしょうか。来年9月に入学すれば、26年にもMLBドラフトの対象選手と言われています。

佐々木 今回、メジャーへの近道ということで、アメリカの大学を選んだというのではなくて、自分自身の人生を、広い世界で選びました。繰り返しになりますが、メジャーへ行くために、アメリカへの留学を決断したのではないです。自分自身の人生を考えた上での選択です。

──「夢」としては、あるんですよね。

佐々木 小さいころから描いてきたのは事実ですが、決断のタイミングで、そこは考えていなかったです。履き違えやすいところではあるんですけど、分別はつけています。(10月10日に表明した段階で)自分自身も『メジャーへ行くための選択肢ではない』と、明確な理由として言っていなかったのも、悪かったと思います。もちろん、最終的には『一番の夢』ですので、実現できればいいですが……。

──花巻東高の先輩の菊池雄星選手、大谷翔平選手とは、別のルートを歩みます。

佐々木 雄星さん、翔平さんは素晴らしいですし、リスペクトしかありません。目指している先輩であるので、少しでも追いつけるように、練習していきます。自分自身は大した選手でもないですし、繰り返しになりますが、生き方としては、野球もできる人間になりたいです。

──佐々木監督は両メジャー・リーガーの意見も参考にしたそうですが、佐々木選手もアドバイスを受けましたか。

佐々木 直接はありません。監督さんが仲介して、アメリカの良さを聞きました。ただ、自分の人生なので、最後は自分で決めるもの。この目で見て決断しました。

花巻東高の学校正門と校舎[写真左]には、同校OBのブルージェイズ・菊池とドジャース・大谷の活躍を称える垂れ幕が設置。佐々木はグラウンドのネット裏にある、花巻市から寄贈された記念モニュメントの前でポーズを取る[写真=BBM]


──10月26日のNPBドラフト当日は、どのように過ごしたのでしょうか。

佐々木 プロも選択肢として、最後の最後まで、どちらに行くか迷っていました。決断して以降は(自分の)野球のことしか考えていなかったので、気持ちの部分でも切り替えていました。ドラフト当日は練習していました。ドラフトの結果は部員からの情報、報道等で知りました。

──同じ高校3年生がドラフト指名を受けましたが、どのような思いでしたか。

佐々木 同世代の選手の皆さんには、それぞれ自分自身で決めた道がある。そこには覚悟とか、いろいろ迷って決めたと思います。どの大学、どのプロでも、自分が何かを言える立場にはないですけど、リスペクトしかない。ここの18歳って、人生の相当、大きな岐路だと思っています。その中で選んだ道は、相当な覚悟を持って生活をしているので、本当に同世代の選手には尊敬しかないです。

──8月の甲子園大会後、9月に渡米して約10日間、5つの大学を視察し、MLBのゲームも観戦。実際に自身の目で見て、日本の大学、NPBを含めた4つの選択肢から一つに絞り込んだわけですね。

今夏の甲子園は仙台育英高との準々決勝で敗退。「岩手から日本一」を目指した試合後は涙が止まらなかった。左端は父である佐々木洋監督[写真=宮原和也]


佐々木 アメリカに行くのも初めてだったので『世界』を見た衝撃を受けました。言葉にするのが難しいほど、良さを感じる部分があったんです。自分としては、進路を決めるために行かせていただいた。メジャー・リーグはベースボールの本場であり、とにかく、楽しかったです。選手と関わることはなかったですが、(決断後)アメリカの大学を目指していく中で、モチベーションをもらいました。

──佐々木監督と行ったんですか。

佐々木 自分だけ、一人で行きました。

──岩手からの移動も大変だったのでは。声をかけられたりしませんでしたか。

佐々木 そんなことないです。全然、有名じゃないので……(新幹線で)東京に行って、羽田空港へ。分からないこともありましたが、すべてが勉強なので。

──最終的な大学の選定は?

佐々木 もう1回、アメリカの大学に行って、そこで、絞り込みたいと思います。

講義で突き刺さった言葉


──留学にあたり、語学力が最大のポイントです。勉強はしていますか。

佐々木 国体までは野球がメインでしたが、以降は勉強と練習を両立しています。大学の入学は来年9月を予定しており、1日1日を大事に過ごしています。

──11月下旬には降雪もありましたが、野球の練習量はいかがでしょうか。

佐々木 グラウンドはなかなか使えないので、体づくりを中心に、ウエート・トレーニングを一から取り組んでいます。

──体が引き締まった印象はありますが。

佐々木 どうですかね(苦笑)。トレーニングの頻度は増えていますが、体重の変化はありません。113kgです。

──今後のウエートの展望はありますか。

佐々木 この体があったからこそ、バッターとしてのパワー、飛距離が生み出せているのは間違いない。具体的には考えていないですが、トレーニングを継続していく中で、体の質を変えていきたいです。体をつくりながら、ベスト体重に持っていく。110kgを切るぐらいですかね? そこはバランスを取っていきたい。

花巻東高のグラウンドは日居城野運動公園が隣接し、広大な松林が広がる。恵まれた環境で実力を高めた[写真=BBM]


──アメリカの食事は合いますかね。

佐々木 9月に行った際も、全く問題なかったですし、すべてを体づくりとして、とらえていきたいと思います。

──趣味は「長風呂」と聞いたことがありますが、浴槽はないかもしれません。

佐々木 まあ、気になることはないです。

──さて、国体以降、具体的にはどのような勉強をしているのでしょうか。

佐々木 アメリカ人の英会話の先生とのやり取りや、週に3〜4回、オンラインですが、塾にも通っています。英語の資格試験を取っていかないと、先に進むことはできません。数値的にも最低限のラインがある。アメリカの人たちと問題なく討論、議論ができるレベルにまで上げて、アメリカへ行きたいと思います。

──好きな英語のフレーズはありますか。

佐々木 スピーチを聞く講義があるんですが、スティーブ・ジョブズ氏の「Stay hungry Stay foolish」という言葉に感銘を受けました。意訳すると「貪欲であれ! 愚直であれ!」。情熱を持って取り組む。自分自身の生き方として、夢をかなえるために、心の底から本気になって行動していかないといけない。覚悟を持って、アメリカでどう過ごすか。人生とあの言葉がリンクするものがありました。

ホームランへのこだわり


──10年後の自分を、どう想像しますか。

佐々木 28歳。まずは、野球選手として頑張っていきたいと思いますし、もちろん、世界で活躍できるような選手になりたい。野球選手としては、そこに歩んでいる過程であればいいな、と思います。

──20年後は、38歳です。

佐々木 1年でも長くプレーしたい。野球が終わってからのことは、大学で見つけたい。新たな出会い、アメリカで刺激を受ければ、やりたいことも見えてくる。

──具体的に、その先を考えていますか。

佐々木 人を伸ばすような、人を育てる職業ですかね。それは、教師とは限らないですけど……。その生き方は父であり、監督と同じ道。小さいころから監督、教師として生徒と接する姿を見てきました。人材育成を仕事にしたい思いがあり、そのためにも、アメリカの大学でしっかり勉強をしていきたいです。夢物語を語っていますけど、野球だけではない、将来的な道を紐づけていきたいと思います。

──現役引退後のセカンドキャリアのほうが、はるかに長い。そこで、語学が佐々木選手の大きな武器となっていきますね。

佐々木 今は苦しいですし、相当、大変ですし、難しいですけど必ず、自分に身につけば、プラスになることしかない。マイナスになることは絶対に、ありませんので。もちろん、不安はありますが、自分自身は楽しさ、ワクワクする部分のほうが大きい。苦しさを乗り越えた先に、いいものがリターンしてくると信じて、それを、モチベーションにしています。

──留学となれば、ご両親のご負担もあるかと思います。恩返ししたいですね。

佐々木 自分がこういう道を歩むこと、自分らしく生きることが両親に対する恩返しだと思っています。もちろん、お金がかかりますし、これからも迷惑をかけていくと思いますが、必ず、長期的に考えたらプラスになるとしか考えていない。

──主な高校生で歴代1位の高校通算140本塁打。数字は意識していないそうですが、佐々木選手の3年間の足跡かと思います。

佐々木 特別、騒がれているわけでもないですし、今でも、その数字を看板にして、生きているわけでもありません。ただ、記録を作らせていただいたのも、自分だけの力ではありません。「佐々木麟太郎」は多くの人との出会い、ご指導、サポートのおかげで、今がある。この夏の甲子園出場も、周囲の仲間に助けられ、連れて行ってもらった。個人としては悔しい思いが多かったですが、恵まれた高校3年間に、感謝したいと思います。

──アメリカの大学に進学しても、本塁打へのこだわりは変わらないでしょうか。

佐々木 バッターとして、そこを長所として、生きてきました。そこを追求していくことは、ずっと変わらないです。

──佐々木選手にとって「野球」とは?

佐々木 何事にもシステム、仕組みが存在します。これまでも、野球から学んだことがたくさんありましたので、一つの哲学としてとらえている。今後も生きていく上で重要なツールになると思います。

 18歳、前例のない挑戦が始まった。佐々木は日々、自らの足で新たなルートを切り拓く。そこに、一切の迷いはない。目的意識が明確で、その表情は明るい。信じた道には必ず、正解が待っている。

[写真=BBM]


PROFILE
佐々木麟太郎/ささき・りんたろう●2005年4月18日生まれ。岩手県出身。184cm113kg。右投左打。江釣子小1年冬から江釣子スポーツ少年団で野球を始め、県大会出場。江釣子中ではドジャース・大谷翔平の父・徹さんが監督を務める金ケ崎シニアでプレー。2年時に東日本選抜大会優勝、2年秋に北東北大会優勝。花巻東高では1年春からベンチ入りし、同夏は県大会準優勝。同秋は県大会、東北大会を制し、明治神宮大会4強。2年春のセンバツは1回戦敗退。同夏は県大会4強。主将を務めた同秋は県大会優勝で、東北大会初戦(2回戦)敗退。3年春は県大会優勝で東北大会8強。3年夏は岩手大会優勝で、甲子園は1回戦から3勝を挙げ、準々決勝進出。高校通算140本塁打。父は花巻東高・佐々木洋監督。

<TOPICS1>日本の高校から米国大学進学後MLBドラフト指名選手


 日本の高校から米国の大学へ進学し、MLBドラフトの指名を受けたのは過去に3人いる。九産大九州高・坂本充外野手は卒業後、インディアンヒルズ短大へ進み、アリゾナウエスタン短大へ編入。2002年ドラフトでロッキーズから24巡目(全体711位)指名を受け、3Aに昇格したが、04年に退団している。駒大苫小牧高・鷲谷修也外野手は卒業後、デザート短大へ進学し、08年にナショナルズから42巡目(全体1261位)指名も辞退。翌09年に再びナショナルズから14巡目(全体412位)で指名され入団し、同年にルーキーリーグに出場した。東北高・西田陸浮内野手はマウントフッド・コミュニティ・カレッジへ進み、23年にオレゴン大へ編入。同年のドラフトでホワイトソックスから11巡目(全体329位)指名を受け、ルーキーリーグと1Aで出場した。

<TOPICS2>4年制大学進学のための英語資格試験の最低ライン


 12月1日に応じた報道各社の取材にて「留学生として、英語の資格をある程度、取っていかないと、先に進むことはできない」と危機感を募らせていたが、具体的な内容については、明言しなかった。アメリカの大学へ留学するには実際、どれほどの語学力が必要となってくるのか。東京都の私立の進学校・桐朋高でプレーする森井翔太郎内野手兼投手(2年)はNPB志望ながらも、仮に指名漏れの場合はアメリカ留学を考えているという。将来的にはMLBでのプレーを熱望。英語資格試験の目安について、説明した。

「NCAA(全米大学体育協会)のディビジョン1でプレーするには、TOEFLの4技能(リーディング、リスニング、スピーキング、ライティング)の総合評価の120点満点で『61点以上』が4年制大学出願の最低ラインです」

 森井が言う「61点以上」とは、佐々木が明かした「アメリカの人たちと討論、議論できるぐらい」のレベルと言えるだろう。10月の鹿児島国体後から本格的に勉強を始め、どこまで語学力をアップさせていけるのか。あとは、本人の努力次第である。

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